クリスチャンは戦争をしてもよいか? 2 「平和ボケ」した平和主義ではなく

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

藤原 淳賀
東京基督教大学専任講師

 

ナイーブな平和論

私は平和主義(Pacifism)の伝統に立つ者だが、現在の日本の平和主義、また多くのキリスト者の平和主義とは立場を異にしている。彼らの平和主義にはシビアな現実理解も、平和のための代価(コスト)を払う覚悟もないからである。

日本の一般的な平和主義はナイーブな感情論である。「罪のない子供たちがかわいそう」「戦争は絶対に悪」だから戦争反対だという。またクリスチャンは、「神様はすべての人を愛しておられる」「聖書に殺してはならないと記されている」から戦争反対だという。これらは決して間違ってはいないが、そこで終わってしまうなら議論としては不十分である。

素朴でナイーブな平和主義者は戦争に反対するのみで、現実的な代案を示さない。「平和」を唱えていれば平和がおとずれるとでも考えているような印象を与える。これは我々の立場ではない。

現実主義

私たちが住んでいるのはエデンの園ではない。現実には、人を人とも思わぬ指導者がいる。国民を搾取する者、民間人の殺戮を行う者、大量殺人兵器を持つ者、民族浄化の名のもと大量殺人を行う者、さらに一般市民の上に二発もの原爆を落とす者。私たちが生きているのはそのような堕落した世である。

現実主義は、実際に悪を減らす効果のある行為を要求する。毒を持って毒を制すことも必要と考える。

キリスト者も蛇のようにさとく現実を知らなければならない。しかしながら、単に水平次元の現実のみを見、悪に対して悪で報いるということはキリスト者には受け入れられない。現実問題の中で垂直に神を見上げ、神の御心を求めなければならない。故に単なる現実主義も我々の立場ではない。

クリスチャン・リアリズム

悪を目の前にしたときのクリスチャンの責任とは何か? イエス・キリストがいわれるように「敵を愛する」ということが可能なのか?

クリスチャン・リアリズム(現実主義)は、社会に対する責任を果たすためには、暴力を用いざるを得ないときがあるという。悪を放置しておくことは無責任な態度であり、人権をできるだけ尊重しながら、(ピンポイント攻撃などの)最低限の破壊を行い、無法者の悪を止めなければならないという。

一方でイエス・キリストの教えを理想として仰ぎながら、それは現実には実行不可能として、もう一方に常識を置き、現実的な妥協点を探る。

これが「キリスト教国」では一般的な考え方である。社会をいかに「正しい方へ」導くか、という国家の中心に立つ国教的キリスト教の発想である。今日でもこれが主流の考え方である。彼らが求めることはキリスト者も非キリスト者も合意できる正義である。だから聖書には言及したとしてもあまり強調はしない。

これは現実をはっきりと見ているし、キリスト教的香りをいくらか持っている。しかしこの立場の問題点はイエスの教えを参考意見としては聞きながら、結局はそれを水で薄めてしまうことである。イエス・キリストは彼らにとってアドバイザーの一人ではあるが主ではない。

聖書的リアリズム

それに対し聖書的リアリズムは、聖書の主張、特にイエス・キリストの教えと生き方に現実社会で真剣に従おうとする。現実の問題を直視した上で、さらにそこにある危険を熟知した上で、イエス・キリストが言われたがゆえに、またイエスがそのように生きられ、死なれたがゆえに敵を愛そうとするのである。右の頬を打たれたとき、左の頬を出そうとするのである。これは素朴な原理主義(ファースト・ナイービテ)ではない。むしろ批判的聖書理解およびシビアな現実理解を通った上で、第二のレベルで、書かれているままにテキストを読みそれに従うセカンド・ナイービテ(P・リクール)といえよう。

これは回心を経験した者からなる教会(ビリーバーズ・チャーチ)のみが理解し取り得る選択であり、国策にはなり得ない。このような選択の実際的効果を計算することは難しく、そこには犠牲が伴う。しかしこれがゲツセマネの、そしてカルバリの主が歩まれた道である。

犠牲を払う覚悟で

キリスト者が平和を語るとき、平和ボケしたナイーブな反戦主義ではなく、現実に主要諸国の意図および利権を見なければならない。自由の国アメリカが行った自国の報道規制に目を留めなければならない。日本が長期的にまた目前の問題に対してとりうる現実的な選択肢を知らなければならない。そしてその上で犠牲を払う覚悟を持って主に従う道を模索しなければならないのである。

 

クリスチャンは戦争をしてもよいか? 3 神が戦われる

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