東後勝明
早稲田大学名誉教授
あるとき家内と、知人についてこんな会話の一コマがあった。
私「あの人、いろいろ言われているけど、とてもいい人だったよ」
家内「そう、それはよかったわね」
私「うん、本当に素晴らしい人だった。クリスチャンではないんだけど」
家内「クリスチャンでないから、いい人なんじゃない」
私はことばに窮した。
このとき、二人はなぜこんなやりとりになったのだろう。私には「クリスチャンはいい人」という思いこみがあったため、ついそのように言ってしまった。その思い上がりとも取れる私のことばに、家内は皮肉を交えて私をたしなめたのである。
このあと、家内のことばは、こんなふうに続いた。
「そうじゃない? 教会に行ってご覧なさい。いろんな人がいるでしょ。だから私でも行けるのよ」とさらりと言ってのけた。これには少々驚いたが、言われてみれば確かにそうだ。
教会が素晴らしい人ばかりの集まりなら、眩しくて仕方がないだろう。自分もそのようにならなければと思っているだけで疲れてしまう。足はいつのまにか遠のくのではないか。
そのうえ、あの分厚い聖書を読まなければならないとなると、開いて見ただけで億劫になってしまう。心の安らぎを求めて教会に来たはずが、なんとなく息苦しくなり、「神様ってどこにいるの」と言うことになりかねない。
信仰の最初の落とし穴はこんなところにあり、多くの人がここで足を取られる。私たちはどうしても一つひとつの物事に「こうあらねば」「こうすべきでは」と思ってしまい、聖書をまるで人生のルールブックのように考え、一つひとつのルールに従おうとする。
しかし、神に従っているつもりが、いつのまにか神をも味方につけ、自分が働いてしまう。誤解を恐れずあえて言えば、聖書のことばは神のことばであり、人間の私たちがそのことばどおりになど所詮できる訳がない。私たち人間にできることはその神を信じ、自分のすべてを、生きることも、死ぬことも神に委ねていくことである。
このことを通してはじめて私たちは解放され、福音の恵みに満たされるのではないか。
神様は信じた人にのみ存在し、信じた人にのみ現れ、信じた人にのみ働かれる。この「信じる」ということを抜きにして、信仰は成り立たない。
次回はこのことを共に考えてみたい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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