スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第五回 静かな黙想への招き

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

坂野慧吉(さかの・けいきち)

1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

ライフ・リビジョンセミナーが始まって三日目の朝の食事。

そのセミナーでは、朝は沈黙の中で朝食をいただくことになっていた。先に席に着いた人から、着席して感謝の黙祷をささげ、部屋の机の上に用意されたパンとチーズ、ハムとデザートの果物を自分で持って来て食する。同じテーブルに座った人同士は、何か必要なものがあれば、沈黙のままで目か手で合図する。沈黙の中のコミュニケーション。

ある程度食事が進んだときに、ハンスが静かに詩篇一〇三篇を朗読した。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ/私のうちにあるすべてのものよ/聖なる御名をほめたたえよ。/わがたましいよ 主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(一~三節)。

朗読されたみことばが、たましいの深いところに沈んでゆく。

その日の午前中、カーサ・ロッカ(岩の家)の一階の広間で、静まりへの導きがなされた。最初の二十分間は沈黙の時。静かに息を吐き、深く息を吸う。心を鎮めようとするが、さまざまな思いが心と頭を駆け巡り、心は静かにならなかった。しかし、少しずつ静まることができるようになり、沈黙の中で、私は主と会話をした。

最初に私は、主が私を待っていてくださったことを感謝した。主は「わたしの顔を慕い求めよ」と語られた。私は「あなたの御顔を慕い求めます」と答えた。しかし、主と私の間に、何か妨げるものがあると感じて、覚えていたみことばを心の中で思い起こして、自分のたましいに語りかけた。「わがたましいよ/なぜ おまえはうなだれているのか。/なぜ 私のうちで思い乱れているのか。/神を待ち望め。/私はなおも神をほめたたえる。/私の救い 私の神を」(詩篇四二篇一一節)。

この「私の救い 私の神を」というみことばを心に覚えた時に、自分が主イエスのふところに抱かれているのを感じた。そして主イエスにあって、父なる神の御前に安息を得ているのを感じた。それと同時に、神が私の心を開いてくださって、この心の暗闇を見ることができるように祈った。

「静まり」の祈りを経験する中で、私の「祈り」は、ほとんど「お願い」になっているのではないか、と思わされた。ジェームズ・フーストンの祈りの本『神との友情』(いのちのことば社〔原題Prayer: Transforming Friendship〕)の中で、彼はアレクサンドリアのクレメンスの「祈りとは、神との友情を育てることである」ということばに出会って、祈りが苦痛ではなくなったと書いている。祈りは、祈る者を造り変える「神との友情」なのだ。

この本の中で、著者はさまざまな祈りについて記している。Oratio(ことばの祈り)、Meditatio(瞑想の祈り)、Contemplatio(観想の祈り)。私の祈りは、「ことばの祈り」であり、しかも自分の願い、自分の要求を神にぶつけているようなものだった。まるで、神様が私の願いを知らないかのように。もちろん、このように祈ることが間違いだとは思わない。でもどれだけ神に感謝の祈りをささげているだろうか。神をほめたたえ、神の栄光をあらわしているだろうか。

そして、みことばを思いめぐらして、神の語りかけに心を傾けているだろうか。さらに「神の御顔」をじっと見つめ、ことばにならない思いをもって神との交わりを持っているだろうかと思わせられる。

マックス・ピカートは『人間とその顔』(みすず書房)の冒頭で、「人間の顔は、人々にというよりも、むしろ神に対して捧げられている。人間の顔はなによりも、先ず神への返答である。顔は造物主に対して答えるのだ。そして、この返答は沈黙のなかで行われるのである」と記している。

神は「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と仰せられ、神は「神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記一章二六、二七節)。神の意図は、人間が神との交わりを持ち、神の御顔を仰ぎ、他の被造物を管理することであった。しかし、人間は神のことばに背き、罪を犯し、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」のである(創世記三章八節)。

しかし、神はこのような人間に対して、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられた。

神から逃走する人間を神はあきらめることなく、ついに神の御子を人としてこの世に送られた。私たちは、この神の御子イエス・キリストの贖いによって、罪を赦され、再び神の御顔を仰ぎ、神の御前に生きる者とされたのである。

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Emmanuel

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