小文字のキリスト教

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

これが当ブログ通算100回目の投稿になります。開設したのが昨年の11月16日でしたから、ほぼ1年かかったことになります。毎日のように更新されるブログに比べるとまことに遅々たるペースですが、ここまで続けることができて感謝しています。当初はここまで続くとは正直思っていませんでした。いつも読んでくださっている方々に心から感謝します。

ということで、今回は現在進行中のシリーズはお休みして、以前から考えていることをお分ちしたいと思います。

何年も前のことになりますが、はじめて英語で使徒信条を読んだ時、日本語では「我は・・・聖なる公同の教会・・・を信ず。」と訳されている部分が英語では”I believe in . . . the holy catholic Church”となっているのを知って、とても興味深く思いました。これはもちろん、いわゆるローマ・カトリック教会を指しているわけではありません。英語のcatholicカトリコスというギリシア語に由来する言葉で、「普遍的」という意味があります。ですから、プロテスタントに限らずすべての教派のクリスチャンが使徒信条を唱える時には、キリストのからだとしての普遍的な(「公同の」)教会に属しているということを告白しているのです。これに対してローマ・カトリック教会はRoman Catholic Churchと言いますが、ここでのCatholicは大文字で書かれ、ローマ教皇を最高指導者とする特定の教派を言います。

同じことはorthodoxということばについても当てはまります。これは本来は「正しい教え・賛美を持つ」を意味するギリシア語オルトドクソスから来ており、使徒たちに遡る正統的な信仰を意味します。しかし、大文字でOrthodox Churchというといわゆる東方正教会という特定の教派を指すことになります。

キリスト者としての自分の位置づけはといえば、敢えていうなら「福音派Evangelical Christianity」に属する者です。この言葉は一般的な用法で言えば、聖書の権威とイエス・キリストへの信仰による個人的回心を重んじる保守的プロテスタントの諸教会を指しますが、語源的には福音(エウアンゲリオン)に根ざしている教会、という意味です。

このような大文字(Catholic, Orthodox, Evangelical)小文字(catholic, orthodox, evangelical)の表現には興味深い違いが表れていると思います。それぞれ、元来は全キリスト教会に当てはまるべき重要な特質(普遍、正統、福音的)を表した形容詞でありながら、それを大文字化して特定の教派の名称にしてしまうと、あたかもその特質がその教派の専売特許であるかのような錯覚を与えてしまう危険性があるのではないかと思います。そしてそのような「大文字化」の背後に、自分たちのグループのみが神の真理を代表しているという排他的独善性が見え隠れするように感じているのは私だけでしょうか。

このことに関して興味深い記述がパウロのコリント人への手紙の中に見いだせます:

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。(1コリント1章10-12節)

コリント教会の中心的な問題は、教会に分派があったことです。それぞれのグループは特定の指導者を担ぎ上げて、「パウロ派」や「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」などに分かれて争っていました。ところがここで興味深いのは、そのような分派の中に「キリスト派」とでもいうべきグループがあったということです。これは何を意味しているのでしょうか?クリスチャンが「わたしはキリストにつく」と言うことのどこが問題なのでしょうか?

おそらく、ここで言われているのは、「自分たちだけがキリストに忠実なグループである」と主張し、他の人々を見下しているような分派ではないかと思われます。「私たちはキリストにつく」と言えば、他のクリスチャンたちはキリストについていない、ということを暗に意味します。「キリストへの忠誠」という、クリスチャンにとって最も大切な特質も、それが排他性を帯びてくるときに、教会に分裂をもたらし、神の国の働きを妨げる結果になってしまうということです。同様に、現代の私たちも自分たちだけが「普遍的」「正統的」「福音的」な教会であるという自負を持つとき、コリントの「キリスト派」と同じ過ちを犯していることにならないでしょうか。

この大文字と小文字の違いは、自分にとってキリスト者としてのアイデンティティを考える上でとても重要です。私はいわゆるカトリック(大文字のCatholic)信徒ではありませんが、公同の(小文字のcatholic)教会に属するクリスチャンとして、同じ信仰を共有する他教派のキリスト者と交わり、彼らから学んでいきたいと願っています。同様に、私は大文字のOrthodox Church(正教会)に所属してはいませんが、初代教会につながる正統的な(orthodox)信仰を保持する者でありたいと願っています。さらに、私は広い意味での福音派Evangelicalに属する者ですが、いわゆる「福音派」だけが福音に根ざした(evangelical)キリスト教であるとは思っていません。福音派であろうとなかろうと、イエス・キリストの良い知らせ(福音、エウアンゲリオン)を受け入れ、これを宣べ伝える人々とは神の家族であると思っています。

もちろんこれは、キリスト者が特定の教派に属することを否定するものではありませんし、私も歴史の中で培われてきたそれぞれの教派的伝統の意義は十分に認めています。しかし、ここで述べてきたようなキリスト教の特質は、本来全教会の共有財産であるべきものだということを意識するだけで、教派的背景の異なる兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つことができるようになるのではないかと思います。ですから、evangelicalなカトリック信徒やcatholicな正教徒がいてもいいし、orthodoxなプロテスタントのクリスチャンも当然あってしかるべきだと思います。

「神学する」というと、自分の所属する特定の教派や伝統の独自性に強調点が置かれることが多いですが、時には一歩下がって、自分の信仰をより大きな、よりジェネリックな「キリスト教」の枠組みの中で見つめ直してみることも必要であると思います。N・T・ライトは端的にクリスチャンであることについて書きましたし(Simply Christian、邦訳は『クリスチャンであるとは』)、C・S・ルイスは「ただのキリスト教」(Mere Christianity、邦訳は『キリスト教の精髄』)について語りました。同じような問題意識の下、私はcatholic, orthodox, evangelicalといった「小文字のキリスト教 small-letter Christianity」という信仰のあり方を追い求めていきたいと思います。

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