十字架へ向かう主イエス

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「十字架へ向かう主イエス」

鈴木文治
マルコ3,1-6

1 罪人を招く主イエス

 本日の聖書に入る前に、前後の状況について触れる。2章13~17節では徴税人レビの家で食事を刷る記事がある。ローマ帝国のために税を取り立てていたレビは、「私に従いなさい」とイエス様に声をかけられ、一緒に食事をする。そこには多くの徴税人や罪人が同席していた。イエス様が食事を共にする、それはレビやその仲間たちにご自身を与えられたということである。イエス様と一緒に食事をすることは、イエス様の血と肉に預かることを意味する。つまりご自身を与えるとは、与えられた者が救われたということである。

 しかし、それを見たファリサイ派や律法学者は、なぜこんな人たちと食事をするのかと問いただす。彼らは恥ずべき人々で、神の救いに値しない者たちだという決めつけがある。それに対するイエス様の答えはこうである。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 イエス様はすべての罪人を許される方である。すべての罪は許されている、それが救いということである。それがイエス様の語られた福音である。この福音が告げ広められる様子が3章7~12節で語られている。しかし、聖書はそこに至るまでに断食と二つの安息日の記事を挟んでいる。

 断食は花婿であるイエス様が一緒にいる間は、断食はないということを示すこと。安息日に弟子たちが麦の穂を摘むことを許されたのは、ダビデ王がなしたことを引いて、イエス様こそダビデであることを示したことである。ダビデは自分に仕えている人々にパンを与えたという故事がある。さらに安息日は人のために定められたものとイエス様は言う。つまり、人の子、イエス様は安息日の主であると言われる。安息日は何もなしてはならない日ではなく、イエス様が神の安息日に入られたことを喜ぶ日なのだ。

 2 本日の聖書

 イエス様は会堂に入り、この日も罪の許しを説教された。人々はファリサイ派の人々によって教えられていたので、安息日に何かすることは間違いと信じていた。人々の敵意をイエス様はご存じだった。イエス様を安息日の主であることを受け入れる人がいようといまいと、イエス様は安息日の主であり、会堂で罪の許しをされる。私たちも今日、主のおられるところで、罪の許しの説教を聞かなければならない。私は罪人であり、イエス様によってその罪が許されていることをしっかり聞かなければならない。

 さて、そこに手の萎えた人がいた。イエス様がおいでになるそのところに、輝かしい栄光の満ちたその場所に、キリストの臨在をあざ笑うかのように悲惨な姿の人が登場する。キリストの光を持ってしても照らすことの出来ない暗黒があるのだろうか。キリストの恵みを持ってしても埋めることの出来ない虚無があるのだろうか。

 この人はイエス様に癒やしていただこうと思って来たのではない。ただ、イエス様がおられる会堂で慰めを求めてやってきた。イエス様はこの後どうされたのでしょうか。人々はイエス様がこの人を癒やされるかどうか注目している。病気や障害を癒やしたと評判のあるイエス様に強い関心を抱いていたからである。イエス様に敵意のない人々も、イエス様がどうされるのか好奇心で見つめている。それでは真剣に礼拝などできるはずもない。そこには障害のある人への憐れみもない。人々の悪意やあざけりの対象にもなっている。ある意味でドラマの舞台は整っているのだ。主役のイエス様が何をするか、人々は固唾をのんで見守っている。もっと言えば、人々は何かを予感して、この機会にイエス様を訴える口実を掴もうととしている者もいる。波風の立つことを恐れる人であれば、もう一日待つことも、つまり安息日を避けることも考えであろう。何より、会堂は礼拝の場であり、祈りの家である。治療室ではないことは明確である。

 しかし。イエス様は穏健に争いを避けることをしないで、悪意のある人々に対して露わな形で挑戦に応じる。そのことは現在を生きる私たちが困窮に陥っている人々をただ見ているだけであれば、イエス様はその私たちの姿を悲しんでみておられる、あるいは厳しく咎められると思うべきである。イエス様の姿勢は、今日行うべきことを明日に延ばすなと言われている。2章1~12に記されている中風をイエス様が癒やされた記事は、信仰はまたの機会、別の日をもうけて引き下がるものではないと教えられる。イエス様は今日のことを今日されるお方であることを教えている。信仰者とは時を知るものであるが、それは信仰の主であるイエス様が、一刻一刻、一瞬一瞬をかけがえないものとして重んじておられる方であることを示していることであり、私たちに限りない愛を注がれていることを示していることである。

 イエス様は手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせて言われる。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。人々の仕掛けた罠にイエス様は陥るのかと思われるが、イエス様は論争の主導権を握られたのである。イエス様は、善か悪かと詰問される。善や救いと殺すことの中間などないと言う。善と救い、これがイエス・キリストの前に置かれたただ二つだけの価値観である。障害のある人を癒やすのは善、その人を材料としてみることは悪である。その悪意との衝突を避けて明日に延ばすことは悪である。救うか殺すのか二者択一である。

 片手の萎えた人を愛さないであしらうことは、キリストの前では殺人と同じである。苦しむ者に愛を持って応える、これがイエス様の絶対的な基準である。このことは私たちに対してもこの絶対的な基準が突きつけられていることが示されている。救わないことは殺すことになる。病んでいる人、苦しむ人を無視することは、その全存在を殺すことなのだ。キリストの前では、「あれか、これか」の選択しかない。イエス様のもとで、その人を愛するか、それとも殺すのか、どちらかしかない。イエス様の片手にマヒのある人の癒やしは、ただ片手の癒やしの問題ではなく、全存在、全生命に置き換えられていることは、イエス様が絶対的な審判者であることを示している。五体がそろっているか、明日のパンがあるかどうかは、生命とは関わりない。人の生命は、その霊的な本質に関わっている。イエス様が具体的にご自身に結びつけられることによって、人は神に結びつけられた生命を生きるものとされるのである。私たちも、隣人を愛する者にされているのだ。

 さて、カファルナウムの会堂では、イエス様は善を行うこと、命を救うことの二つ以外に大切なものは無いと語られたことで、人々は沈黙に陥る。口をつむぐことで自分たちの誤りを取り繕ったのである。イエス様は怒られた。ここにイエス様が怒られたとあるが、聖書の中でイエス様が怒られたと記した記事は少ない。マルコ10章13~15節に、人々が子どもたちを連れてくるのを見た弟子たちがこの人々を叱ると、イエス様は憤って言われた。「子どもたちを私の所に来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われた。イエス様が憤られたと怒りを隠さずに述べるている。救い主が会堂に臨在されている、何という厳かな恵みであることか。だが、その場が怒りの座に変わる。私たちの礼拝の場がそうならないためには、私たちは十字架の主を仰ぎ続ければよいのである。

 主は怒りの主でもある。しかし、十字架の主は私たちのために、怒りを和らげる恵みの主である。十字架の主を仰ぐとは、主が十字架上で命を捨てられたことだけを言うのではない。十字架においてイエス様は私たちのために、怒りを和らげるお方である。 イエス様は怒って人々を見回して、彼らのかたくなな心を悲しみながら、片手の萎えた人が手を伸ばすと癒やされたのである。安息日の会堂でその場面を見たファリサイ派の人々は、会堂を出て行く。彼らはただ会堂を出て行ったのではない。イエス様を神への冒涜と見て殺す決心をしたのである。そしてヘロデ派の人々のもとに行く。ヘロデ派とはヘロデ王家を支持する人々である。ヘロデ派の人々と一緒にイエス様を迫害するためである。

 今日の聖書は、イエス様が十字架上で死ぬことになることの発端となった記事である。その後、福音が宣べ伝えられ、イエス様が十字架上での死刑に追いやられる記事が続いていく。福音宣教の道を歩まれるイエス様は、十字架への道を歩み続けられるのである。

 今日の聖書を学んで、イエス様が障害や病気、貧しさの中で苦しむ人々と共に歩まれたことを改めて知りたい。教会に慰めを求めて来られる人たちは多い。その人たちもこの地上の生活に恵まれず、苦しんで生きている。その人たちを私たちは心から受け止め、愛しているか。教会の仲間として受け入れているか。それが問われている。

 イエス様は障害のある人を教会の真ん中に立たせた。私は長年、障害のある子どもたちの教育に関わってきたので、この人の障害がどのようなものであるのかよりも、今まで生きてくる中でどんなに苦しんだかを思う。障害の故に物笑いの種にされ、馬鹿にされ、人間扱いをされてこなかったのではないか。現在でも障害者に対する偏見や差別があるが、2000年前ではもっと厳しい状況に置かれていたのではないかと思う。

 この人を会堂の真ん中に立たせた。おそらく会堂の片隅にひっそりとうずくまるようにしていたこの人を、人々の真ん中に立たせた。それは彼こそが教会の真ん中にいるべき存在であることを示している。会堂の片隅に追いやってはいけないことだ。そして癒やされたのである。それはイエス様がその人を愛されたということである。

 もう一度、本日の聖書が私たちに訴えていることを覚えよう。人を愛さないことは人を殺すことであり、主に倣って愛するものになりなさい。それは私たちの努力ではなく、主の示された道を歩むときに、そのようなものにされていることを知りたい。人を愛して生きること、私たちにはその道しかないことを今日もう一度聞きたいと思う。


 
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