聖書には、「十字架を負う」ということばがあります。辞書で調べると「耐えがたい苦難を負うこと」などと記されていますが、イエス様が「耐えがたい苦難を負え」と言っているとは思えません。イエス様が教えた「自分の十字架を負う」とはどういう意味ですか。
おそらく、この方はクリスチャンでしょうね。確かに、聖書にはそういう言葉があります。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書8:34)
この聖句の意味について、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、とても重要なことですが、これは「比ゆ的言葉」です。
つまり、文字通りに「このようにせよ」ということではないのです。これは比ゆです。
もし、文字通りだとすると、クリスチャンは全員十字架を負って歩いていなければなりません。そうすると、すぐに分りますね。「あそこにクリスチャンがいる、ここにもいる」と。しかし、そういうことは通常起こりません。なぜかというと、これは比ゆ的言葉だからです。
「十字架刑」というのは、ローマ時代に行われていた最も残酷で悲惨な刑です。犯罪人は、横木だけを背負わされて刑場に向かいます。縦木も一緒に負うのは、あまりにも重くて不可能だからです。そのため、縦木はあらかじめ刑場に立てておくのです。
十字架刑は見せしめの刑でもあります。横木を負って刑場に向かう途中、犯罪人は「群衆の嘲り」を受けます。罵倒されたり、嘲られたりします。ローマ帝国に反抗するなら、どういう悲惨な結果を招くかを民衆に見せつけるわけです。
と同時に、十字架刑は、かつてローマ帝国に反抗した者が、今はローマ法に服しているということを披露する刑でもあります。
このように、「十字架を負う」とは、ローマ時代の十字架刑を背景とした比ゆ的言葉です。
2番目に、これは「受難の勧め」ではありません。「喜んで十字架にかかりなさい」という意味ではありません。
もちろん、イエス様に従おうとすると、迫害に遭うことが多々あります。時には、殉教の死を遂げるクリスチャンもいます。今でもなお、迫害のゆえに殉教の死を遂げるクリスチャンが世界各地に出ています。
しかし、「十字架を負う」とは、殉教の死を喜んで受け入れ、そこに飛び込んで行けという教えではありません。もちろん、結果としてそういうことになる場合もあります。
3番目に、「では、十字架を負うとは何か」というと、これは「従順の勧め」です。
先ほど申し上げたように、十字架刑が意味しているものは、ローマ法への従順です。つまり、「支配している権威への従順」ですね。
権威に対する従順という点について考えてみましょう。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。
そのように、私たちも、神の御心に従順になる必要があるのです。自分の想いを優先させたい、自分の欲望を達成したいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味です。
十字架を負うとは、神の御心に従順に歩むということであり、同時に、祝福の道を歩くということでもあります。
「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」(ルカの福音書9:23)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(へブル人への手紙12:2)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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