罪の性質とは何?

は、神、聖書、救い、そのほかの霊的な課題を理解することの助けとなる のを願って、それに専念し、訓練を受けたボランテイヤの奉仕者から成るミニストリーです。私たちはクリスチャンです。プロテスタント、保守主義、福音派、根本主義、そして無宗派です。私たちは、教会と相並んで、霊的なことに関しての質問の答を人々が見つける手伝いをするパラ.チャーチ.ミニストリーだと自分たちを見ています。
罪の性質は人間の中の、神に反逆するようにさせる面です。罪の性質というとき、私たちは罪に対して自然の意向があるということです。神のみこころを行うか自分の意志を行うかの選択を与えられた時、私たちは自然と自分の意志を行うことを選ぶのです。

罪の性質の証拠はたくさんあります。誰も子供にウソをついたり自分勝手になったりすることを教える必要はありません。それよりも、子供に本当のことを言うように、他の人を先にするようにとどんなことをしても教えます。罪深い行動は自然に起こるのです。 この世は人間が悪い行動をしている悲しいニュースであふれています。人々はどこにいてもトラブルがあります。チャールズ.スポルジョンは、「塩が大西洋の中の一滴一滴に味をつけるように、罪は私たちの性質のすべての原子に影響を与える。罪は悲しいことにそこにある。それを見つけられなかったら、あなたは騙されていることになるほど多量にあるのだ。」と言いました。

聖書はトラブルの理由を説明します。人類は、単に理論的にではなく実践上、生まれつき罪深いのです。 罪は私たちの全身全霊の一部です。 聖書は聖書は、”罪深い肉”のことをローマ書8:3で語っています。コロサイ3:5に出てくる罪のリストを産み出すのは、私たちの地上の性質です。 ローマ6;6は、"罪の奴隷”について言っています。私たちがこの地上で生きてきた肉と血の存在は罪深い堕落した性質によってかたどられているのです。

罪の性質は人間にとって普遍的です。私たちはみな罪の性質を持っており、私たちのすべての部分に影響を与えています。これが全的堕落の教理で、これは聖書的です。私たちは皆さまよい出たのです。(イザヤ53:6) パウロは認めています。「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(ローマ7:14) パウロは罪ある性質の中にいて罪の原理の奴隷でした。 ソロモンも同意しています。「この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人は一人もいない。」(伝道者の書7:20) 使徒ヨハネは最も遠慮なく言っています。「もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。」(ヨハネ1:8)

子供たちでさえ罪の性質を持っています。ダビデは罪を持って生まれ、すでに罪が自分のうちに働いている事実を嘆いています。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」(詩篇51:5) 別の箇所では、「悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。」(詩篇58:3)と言っています。

罪の性質はどこから来たのでしょう?聖書は神は人間を罪の性質のない善として造られたと教えています。 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)ところが創世記3章はアダムとエバの不従順を記録しています。その一つの不従順の行いで 罪が彼らの性質に入りました。彼らはすぐに恥と資格のない感覚に打たれました。それで、神の御前から身を隠しました。(創世記3:⒏) 彼らに子供ができたとき、アダムのイメージと彼に似たかたちは、子供たちに受け継がれました。(創世記5:3)罪の性質は系図の初めにその性質を現しました。アダムとエバに最初に生まれた子供カインは実に最初の殺人者になりました。(創世記4:8)

世代から世代へと罪の性質はすべての人間に受け継がれました。「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、くして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類がが罪を犯したからです。」(ローマ5:12) この聖句は、罪の性質が容赦なく死に至らせるといううれしくない真理をも提供しています。(ローマ6:23とエペソ2:1をも見る).

その他の罪の性質の結果は、神に対する反感と神の真理についての無知です。パウロは「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることはできません。」(ローマ8:7,8)と言っています。それに、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。またそれを悟ることもできません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえることだからです。」(コリント2:14)とも言っています。

世界の歴史上、罪の性質を持ってないお方が唯一おられます。それはイエス.キリストです。イエスの処女降誕がアダムから受け継がれた呪いを避けて、この世に入ることを許したからです。それからイエスは断然完全な罪のない生活をされました。イエスは「きよい正しい方」(使徒伝3:14)で、「罪を知らない」方でした。(2コリント5:21) それで、私たちの完全な”傷もなく汚れもない子羊のような“身代わりとしてイエスは十字架でいけにえになることができたのです。(1ペテロ1:19)ジョン.カルバンは、それを総体的に見て、「確かにキリストは、アダムが破滅させたよりも、救うのにより偉大な力がある」と言いました。

キリストを通して私たちは新しく生まれ変わるのです。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は例です。」(ヨハネ3:6).私たちがアダムによって生まれたとき、彼の罪の性質を受け継ぎます。しかしキリストによって新しく生まれたとき、私たちは新しい性質を受け継ぐのです。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント5:17)

一度キリストを受け入れても私たちの罪の性質を失うわけではありません。聖書は罪は私たちのうちに残っているので、この世にいる限り古い性質との戦いは続きます。 パウロはローマ7:15-25で、個人的な戦いを嘆いています。しかし私たちにはその戦いに助けがあります。―神の助けです。神の霊はすべての信者のうちに宿ってくださり、私たちの中で罪の性質が引っ張ろうとするとき、それに打ち勝つ力を備えて下さるのです。 「誰でも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちに留まっているからです。園人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」(1ヨハネ3:9).神の最終的計画は、私たちがキリストに会う時の完全な聖化です。(1テサロニケ3:13;1ヨハネ3:2).

キリストの十字架での完了したわざを通して、イエスは罪に対する神の怒りを満足させ、信者に罪の性質を克服する力を備えて下さいました。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(ペテロ2:24)キリストは復活して、腐敗した肉に束縛されていた皆にいのちを提供されるのです。 新生した者には今はこの命令があります。「このように、あなた方も、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト.イエスにあって生きた者だと思いなさい。」(ローマ6:11)

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