私は正しく生きているでしょうか

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」
(「マタイによる福音書」22章37、39節)。

私は正しく生きているでしょうか

フィンランド語原版執筆者: ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)日本語版翻訳および編集責任者: 高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様は人を「御自分のかたち」として創られました。それは、神様は人をある事柄に関しては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」である人は、神様が知っておられるのと同じように、何が正しくて何がまちがっているかを知っていました。神様のかたちとして人は、悪を避け正しく行動しなければならないことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任を負うということでもあります。神様は御自分のかたちに対して、神様のなさるように生きていたか、正しいことを行ってきたか、厳しく吟味するように要求なさいます。

ところが、はじめの人であるアダムとエバが罪の中に堕落するという事態が起きました。その結果、人は正しく生きる能力を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行うようになり、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても、です。たとえどれほど違った生き方をしようと自分で努力しても、です。罪の堕落の招いたもうひとつの結果として、何が正しく何が間違っているかを知る人の能力がたいへんあやふやなものになってしまいました。また私たちの心の奥底も、罪の堕落の結果として罪によって汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととみなしたり、間違っていることを正しくみなしてしまったりするほど歪んでいます。しかも、実際にもそのようにしばしば実行してしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要があるのです。たしかに罪の堕落はすでに起きてしまいました。とはいえ、私たちは依然として「神様のかたち」でもあります。私たちには正しいことと間違っていることに関わる理解が、たとえそれがどれほど曇ってしまっているとしても、やはり残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を神様のかたちとして創造なさった方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前でも後でも変わることなく御存知であり、常に正しく活動なさっています。しかも、神様は正しいことと間違っていることに関わる知識を御自分のものだけに留めておくことはなさいませんでした。神様はこれらの事柄についても、私たちに御言葉を賜ることによって語りかけておられます。この意味は次のふたつにまとめられます。

1)聖書を私たち人間に与えてくださったのは神様です。
そして、神様が御自分で創造なさった人間に対して言われたい内容を御自分で選ばれた人々が書き取るようになさったのです。聖書には、正しいことと間違っていることに関して聖書の立場を明確にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に知っておられる神様御自身の立場の表明でもあるのです。それゆえ、本来の正誤の感覚が曇ってしまっている私たち人間は聖書の御言葉に注意深く聴き従っていくべきなのです。

2)神様御自身がこの世に来られました。
そして、この出来事はイエス様が人としてお生まれになった時に実現しました。イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身なのです。イエス様の中で、天地の主が話し、教え、活動し、働きかけておられるのです。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは、同時に神様の教えでもあります。それゆえ、「何が正しいか」を問うときには「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきなのです。それを知るときに、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについては、聖書から知ることができます。まさしく聖書はイエス様についての書物なのですから。

何が正しく何が間違っているかについて聖書が語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解している事柄に対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗するようになったとしても、それは変わりません。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主による書物であり、私たちが「私たちの創り主のかたち」であるからなのです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられる事柄に対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じる事柄を周囲の人々にもはっきりと語ったり、それに従って活動したりするように励ましてくれることでしょう。

かつてソヴィエト連邦では聖書の命じている事柄を教えることは禁止されていました。聖書は廃棄処分され、聖書の教えは人間が自ら案出した様々な教えに取って代えられました。しかも、それらの新しい教えは聖書の教えよりもずっと優れているものである、と人々は感じたのです。ところが、それからどのようなことが起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活したりすることを学習してしまいました。国の経済も大きく混乱してしまい、以前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。さらには、そうした援助があったにもかかわらず、経済状況は依然として厳しいままでした。豊かな自然もすっかり破壊されてしまいました。これがソヴィエト連邦の結末でした。聖書やその命じている内容が無視されている場所ではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えてくれます。たとえば携帯電話などといった機械製品を使用するときに、その製造元が与えた製品の使用法を無視していると、その製品はまもなく壊れてしまいます。そして、聖書においては、この世界の「製造元」が語りかけておられるのです。当然ながら、この「製作者」は自分が創った世界において、できるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を維持するためにはどのように生きていくべきなのか、知悉しておられます。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えの一切は「愛の二重命令」に言い尽くされています。

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