前回の記事
前回の記事では、私たちが倫理的課題と向き合おうとするときに生じるジレンマについて書きました。今回は、そもそもキリスト教倫理とは何なのかを考えていきたいと思います。
「キリスト教倫理」とか「倫理」と聞くと皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。あるところでそう質問したところ、「風紀委員」という答えが返ってきたことがありました。規律に従って物事を判断するようなイメージでしょうか。なんだか窮屈で面倒くさそうな、そんなイメージをお持ちの方もいるのかもしれません。
「倫理」は「倫(仲間、社会)」という字と「理(すじみち、ことわり)」という字から成ります。「この社会で人としていかに生きていくべきか」を問う学問です。私は高校でもキリスト教倫理を教えていますが、最初の授業で「この社会で生きる」とは、一人旅よりも遠足に近いのだとお話しします。一人で生きるのでも気の合う仲間とだけ生きるのでもない。いろいろな人がいて、中には自分とはまったく違う環境で生きてきた人、違う価値観を持っている人もいる。歩きやすい道ばかりではなく、その時々でトラブルが起きることもある。歩きにくい道を行けば疲れることもあるし、つまずいて自分が傷つくことも、まわりの人を巻き込むことも、怪我をさせることだってあり得る。それが生きるということです。いろいろな人がいて、いろいろなことが起こる、そんな人生をいかに歩いていくかを考えるのが倫理です。そして、“キリスト教”倫理の場合は、キリスト教信仰から、この人生の歩き方を考えていくことになります。
倫理的課題とは、いわば遠足の道中で起こるトラブルです。どう対処したら良いかわからなければ、それ以降の遠足を歩いていくことは困難です。だから私たちはトラブルに直面した時に聖書に聞こうとするのです。そして多くの人が気になるのが「罪ではない」というお墨付きがもらえるかどうかということではないでしょうか。
けれどもこれはかなり難しいことでもあります。聖書には現代の医療技術についても社会問題や環境問題についても書いていません。また、聖書には奴隷制や家父長制、聖戦といった現代の私たちからすると非倫理的に思えることも書いてあります。
それでも必死で聖書と向き合います。そうしていると、いつの間にか、私たちの目が行為の是非にだけ向かっていってしまうことがあります。そして傷つき痛み苦しんでいる隣人がいるという現実から関心が逸れていってしまいます。キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか。キリスト教倫理とは、本当にそういうものなのでしょうか。
ハワーワスという神学者はこんなことを言っています。
キリスト教倫理は、初めに「あなたはしなければならない」とか「してはならない」という問題に関心を持つのではなく、むしろ世界を正しく想像するのを助けることを最初の課題とすべきである。……キリスト教倫理の仕事は、基本的にわたしたちに「見る」ことを教えることである。(スタンリー・ハワーワス『平和を可能にする神の国』新教出版社、66頁)
「見る」ことを教える、というのはお墨付きをもらう倫理とはだいぶ違います。
聖書について考えてみましょう。聖書はひとつの方向性を示すものです。神さまが創造された良い世界と罪による堕落で始まり、それを回復する神さまの贖いの物語は新天新地に向かっていきます。聖書の物語は下の図のようなハッピーエンドに向かう矢印です。さきほど人生は遠足だと言いましたが、聖書は冒険です。神さまと神の民とが紆余曲折を経てハッピーエンドを目指していきます。そしてその冒険の物語を読む私たちもまた、この矢印の途上で、自分の人生という矢印を重ねていきます。
「見る」倫理は、この矢印の指し示す方向を「見る」のです。神さまが世界をどのように導こうとしておられるのか、そして私たちはそこにどのように加わることができるのかを「見る」のです。
聖書は冒険の物語であるだけでなく、私たちにとっては冒険のための地図の役割も果たしてくれます。私たちは聖書から現在地を確認し、向かうべき方向を確認し、歩くべきルートを確認します。また、聖書は私たちがこの冒険で果たすべき役割も教えてくれます。だから、キリスト教倫理は窮屈なものではありません。神さまや仲間たちと一緒に冒険するためのワクワクするようなものであるはずなのです。
そして、私たちの信仰や信仰の決断というものは聖書をどのように理解するかに左右されます。聖書のあらすじをうまく描けない時、地図をふさわしく読めない時、私たちは迷子になり、進めなくなってしまいます。キリスト教倫理のジレンマもそのような状態だと言えるでしょう。本当は愛したいのです。神さまのことも隣人のことも。それなのに、何故かそれができない。だから立ち止まってしまう。それは苦しいことです。
けれども、聖書はもっとも大切な戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を挙げています。だから、もしも私たちのキリスト教倫理が信仰と隣人愛の間で引き裂かれるようなものになってしまっているのだとしたら、あらすじの描き方、地図の読み方のほうに問題があると言えるのではないでしょうか。
あらすじの描き方、地図の読み方のほうに問題があるといわれると、これまで大切にしていた何かを全否定されるように感じる方もおられるかもしれません。けれども、そうではありません。
「自己物語」という考え方があります。私たちのアイデンティティは物語のかたちで存在しているという考え方です。キリスト教には「証」という文化がありますが、証を例にするとわかりやすいかと思います。「〇〇という出来事があり、○○と思ったけれども、神さまは○○をしてくださって○○になりました」というように、私たちは自分の人生を、神さまが導いてくださる一つの物語として理解しています。けれども、時にこの物語をうまく描けなくなることがあり、そうすると生きるのがつらくなります。これからどうやって生きていったら良いのかわからなくなります。そんなとき、物語を語り直すことが解決になります。物語を語り直すというのは、それまでの物語を全否定するということではありません。もう一度自分の人生を見直して、これまでのあらすじの中にとりこぼされてしまったエピソードを見つけるのです。そして、そのエピソードを手がかりに、もう一度あらすじを描き直します。そうやって描き直したあらすじは、前のものよりもずっと豊かで深みのあるものになるはずです。
聖書を読む時も同じです。私たちは聖書のあらすじを描くとき、重要だと思うエピソードを選びます。決して創世記から黙示録までを丸暗記しているわけではありません。だから、あらすじを描く過程で、何か重要なエピソードを取りこぼしているかもしれないのです。だから、取りこぼしてしまったエピソードを見つけ、もう一度あらすじを描き直すことが解決になります。
さきほどキリスト教倫理というものが生身の人間がいるという現実を無視したものになっているのではないかと書きました。「生身の人間」、聖書でよく使われる用語だと「肉」というもののとらえ方に問題があるのではないかと思うのです。聖書の中で私たちは「肉」と表現されています。弱く、罪の誘惑を受けやすく、いつか死に至る限界を持つ存在です。この性質が私たちに痛みや葛藤を与えます。〇×では割り切れない様々な感情を引き起こします。私たちはこういった性質を克服するべきなのでしょうか。痛みや葛藤というものは取るに足りない事柄で、そんなことは置いておいてもっと霊的なことに目を向けるべきなのでしょうか。
決してそんなことはないと思うのです。それは、ほかでもないイエス・キリストが生身の人間としてこの世界に来られ、生き抜き、死なれたからです。
ことばは人(直訳すると肉)となって、私たちの間に住まわれた。……(ヨハネの福音書1:14)
そして同時に、イエス・キリストの生き方は聖なる生き方でした。罪の誘惑に負けることなく、私たちの模範として人生の歩き方を示してくださいました。聖なる方が肉として生きられた―このことを「聖なるものの受肉」と呼びたいと思います。
私たちはこの「聖なるものの受肉」をとりこぼしていたのではないでしょうか。
「聖なるものの受肉」を取りこぼしたあらすじは、私たちの歩みを困難にします。肉であること、生身の人間であることが取るに足りないこととして扱われると、私たちの現実に起こる様々な出来事、感情が置き去りにされてしまうからです。そして、目の前の人の痛みと向き合うこともできなくなります。
一方、「聖」ということも私たちにとっては欠かせないことです。
イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。(レビ記19:2)
この命令は、レビ記に3回出てくるほか、新約聖書第一ペテロ1:16でも繰り返されます。私たちの歩みは確かに聖なるものであるべきなのです。
私たちは「聖なるものの受肉」を手がかりに、あらすじを書き直していくことができます。それは、決して何か大切なものを手放すことではありません。より豊かに神さまの冒険を味わっていくことなのです。そして私たちは、神さまを愛し、仲間を愛し、いきいきとハッピーエンドを目指していく…そういう歩き方を目指していきたいのです。
次回は、取りこぼしたエピソードを理解するためのキーワード「肉」と「聖」について解説したいと思います。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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