新しい身分

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「新しい身分」

廣石 望
エレミヤ書31,21-25 ;

I

 キリスト教に入信するとは、どのようなことでしょうか?

 クリスチャン・ホームに生まれ、子どものときから教会に親しんできた。一家で同時に入信することで、いわばファミリーの宗教を宗旨換えする。親族にクリスチャンはいないが、一人で決心して入信する。結婚相手にキリスト教徒を選ぶか否か、あるいは自分の子どもたちにキリスト教信仰を伝える(/伝わる)か否か。自分や家族のお墓はどうするか。――キリスト教への入信にまつわる背景や動機、またその後に生じることは、人と場合によってさまざまです。

 それでも、ひとつのことが共通しています。すなわちキリスト教に入信する人は、皆が洗礼を受けます(洗礼式をもたないキリスト教会もありますけれど)。じっさいの式のやり方――浸礼か滴礼か――、幼児洗礼と成人洗礼の関係をどう理解するかなど、教派によって考え方が多少異なることはあります。しかし現代日本で洗礼を受けるとは、外的には、憲法が保障する〈信教の自由〉という基本的人権の行使であり、内的には、私という人格が根源的にキリストに属すると告白することだと思います。そして後者の点、すなわち〈私はキリストのものである〉という自覚と告白は、あらゆる時代的な違いを超えて、パウロとも共通しています。

 

II

 今日の聖書箇所の冒頭に、こうあります。「あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。君たちの信仰心によってキリストとの関係が生まれ、そのことによって入信者は神の子になる、という意味だと思います。

 もうひとつの翻訳の可能性は、「君たちは皆、キリスト・イエスにおける信実を通して神の息子たちだ」というものです。その場合、神がイエスのできごとを通して示した人間に対する信実を媒介として、人は神の息子たちという身分を受けとる、という意味になるでしょうか。

 後者の理解の重点は、通常「信仰」と訳されるギリシア語「ピスティス」が、まずは神の自発的な行動を指し、第二義的にこれに対する人間の積極的な応答を意味すると理解することにあります。もともと「信頼」は関係概念です。まず信頼に値する神のできごとがあり、それゆえにこのできごとが人間にとって信頼の対象にもなるわけです。これに対して、日本語の「信仰」は人間の行為だけをさしており、先行する神の働きかけの重要性が見えなくなってしまう弱点があります。

 「神の息子たち」――通常「神の子ら」と訳されます――という表現は、人間の遺伝子が〈神的〉なものに突然変異するという意味では、もちろんありません。むしろ人が、人のままで、神から与えられる尊厳を表現します。「息子」という表現は、権威の継承というニュアンスです。当時の社会では、男子だけが財産継承権をもっていたからです。今の時代であれば、「娘たち・息子たち」といって差し支えありません。

 

III

 続いてパウロは言います、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)。この部分も、原文をそのまま訳せば、「キリストへと沈められたかぎりの君たちは、皆がキリストを着せられたのである」となります。

 私たちは通常、洗礼を「受ける」と言いますが、原語は「沈められる」「浸される」という意味の単語です。さらに特徴的なのは「キリストを着る(/着せられる)」という衣服のメタファーです。例えば、次のようなパウロの発言をご覧ください。

この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。…天から与えられる住みかを上に着たいからです。(コリント 二 5,4)

 古代の宗教思想には、肉体を脱して精神の領域に飛翔することを救済と見なして、「脱ぐ」と表現するものがありました。物質性を脱却するという意味です。これに対してパウロは、肉体と精神を分離しないままに全人格的に、神から「新しい身分」を受けとること、つまり〈重ね着〉のように「着る」ことを救済と表現し直したのだと思います。

 洗礼はそのような「着る」行為、つまりこの世に存在しながら、同時に「新しい身分」を受けとるという自覚を表現する儀礼として、原始キリスト教における入信儀礼になってゆきました。

 

IV

 続いて、有名な洗礼の三称定式が現れます。

もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(28節)

 この発言は、パウロがガラテヤ書簡を執筆したときに自由に作文したというよりは、彼自身も所属していた教会で、洗礼式にさいして用いられた宣言文の引用と言われています。「あなたがたは」という二人称は、もとは「私たちは」という一人称であったかもしれません。キリストにおいて「一つ」と訳された箇所の原語は、人を表す男性形なので本来は「一人」という訳語が適切です。洗礼を受けた者たちは、民族差・身分差・性差を超えて、一つの集合人格を形成するという意味だと思います。

 

 第一の「もはやユダヤ人もギリシア人もなく」という民族差を解消する発言では、ユダヤ人とギリシア人の自称表現が並んでいます。ユダヤ人の間では、異民族をさして「異邦人」(原義は「諸民族」)と呼ぶのが通常でした。他方でギリシア人の間では、異民族は「バルバロイ」(原義は「バルバルと意味不明の音声を発する者たち」)と呼ばれました。つまりユダヤ人は「ユダヤ人と異邦人」と言い、ギリシア人は「ギリシア人とバルバロイ」と言っていた。その二つの民族グループの自称表現だけが並列されて、その両方が無効だというわけです。

 ユダヤ人が異民族を「異邦人」と呼ぶのは皆さんもご存じでしょう。律法をもたないという意味で、「異邦人」は「罪人」と同義でした。私たちもそこに含まれます。他方でギリシア人が「ギリシア人とバルバロイ」というとき、本来は全人類というほどの中立的な意味であったようです。その異民族「バルバロイ」が「野蛮人」という強い蔑視感情を伴うものになったのは、紀元前6世紀のペルシア戦争が大きかったと言われています。

 ペルシア帝国は当時の文明国でしたが、その圧力に耐えかねたトルコ西部エーゲ海沿岸のイオニア系ギリシア諸都市が帝国に反旗を翻し、これにギリシア本土の諸都市が呼応するかたちで、ペルシアとの戦争に至り、結果的にはギリシア側が勝利しました。そのせいで、非ギリシア人を「野蛮人」と見なして蔑視する傾向が強化されたのです。

 例えば、イオニア系を代表するギリシア都市ミレトス出身の哲学者タレスに、次のような発言が伝わっています。

 次の三つのことのために、タレスは運命の女神に感謝していると語っていたという話である。つまり第一には、獣にではなく人間に生まれたことであり、第二は、女にではなく男に生まれたことであり、そして第三は、異民族(バルバロス)にではなくギリシア人に生まれたということである。(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』I,33、加来彰俊・訳)

 この言葉を知っていたのか、ユダヤ人のラビの言葉に、次のものが伝わっています。

 ラビ・ユダは言う、毎日唱えなければならない祈祷がある。私を異邦人にされなかった神に祝福あれ。私を女にされなかった神に祝福あれ。私を田舎者にされなかった神に祝福あれ。(『トセフタ・ベラホート』7,18)

 パウロが伝える定式の第一のペアは、そうした自らの民族出自を誇ることは、もはやキリストに属する者たちにはふさわしくない、という宣言です。

 

 第二に「奴隷も自由な身分の者もなく」とあります。原文は「奴隷も自由人もない」ですが、このペアが社会身分に関わるものであることを明記する「~な身分の者もなく」という新共同訳の補いは、それなりに適切であると思います。

 古代地中海世界は奴隷制社会でした。パレスティナのユダヤ人社会においても、これは同じです。元来は、自分の土地を所有する自由な小農であることがユダヤ人の理想でしたが、社会が変化する中で、借金がかさんで自分の土地を売り、奴隷に身を落とす人々も出ました。50年毎にそうした借財が一切帳消しにされて、ユダヤ人は全員、故郷の土地に帰還することができると定めるのが、レビ記にある「ヨベルの年」という規定です。

 もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて…先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。(レビ記25,39-42)

 この規定は、ユダヤ人がユダヤ人に身売りした場合には、これを「奴隷」扱いしてはならず、ヨベルの年がくれば元の土地を返却すると規定しています。しかし外国人に売られた場合、あるいは外国人がユダヤ人に売られた場合、やはり奴隷にされたと思います。なおユダヤ人がユダヤ人に身売りされた場合も、じっさいには奴隷として扱われるという現実があったからこそ、このような規定も生まれたのではないかと思います。

 この厳然たる社会身分の差異が、キリストという人格にあっては止揚されます。

 

 そして第三に「男も女もありません」。――原文を直訳すれば「男性と女性はありません」というもので、これまでの「~も~もない」とは表現が違います。この「男性と女性」というギリシア語表現は、創世記1章で神が人間を「男と女」に創造されたというときのギリシア語訳聖書(七十人訳聖書)にぴたりと一致します(創世記1,27)。字義通りには「雄と雌」です。――その意味で、この第三の対表現は、いわゆる創造の秩序をひっくり返すような発言として、たいへん注目に値します。

 古代の人々が「男性と女性(の区別)はない」という発言をどう受け止めた可能性があるかについて、研究者の間で、しばしば両性具有の神話が引き合いに出されます。例えばパウロと同時代のアレクサンドリアの哲学者フィロンは、創世記1章が伝える「男と女」に創造された人間と、創世記2章のアダムの脇腹からエヴァが創造されたという記事の前後関係に着目して、まず「男かつ女」つまり両性具有の原人アダムが「天的人間」として創造され(創世記1章)、その後に、男性あるいは女性としての「地上的人間」が創造された(同2章)と解釈します。

 したがって「男性と女性(の差異)はない」という発言は、両性具有者である原人アダムへの回帰と理解された可能性があるわけです。

 

 民族差・身分差・性差――これらは、ほとんどの社会において基本的な区別です。これが「ない」とは、どういうことでしょうか?

 それは、新約学者の浅野淳博氏によれば、宗教学でいう「境界性liminarity」に相当します(同『ガラテヤ共同体のアイデンティティ形成』創文社、2012年)。社会の通常状態である不平等に代えて平等を、安定に代えて一過性を、複雑さに代えて単純さを、賢さに代えて愚かしさを演出することが、その特徴です。お祭りにおける無礼講のことを思い浮かべるとよいかも知れません。

 この祝祭的などんでんがえしは、既存の階級社会でたまった欲求不満をガス抜きするだけで、結果的に現存する社会体制を補完する機能を果たすことがあります。しかし、この状態がマイノリティ集団において恒常化されると、体制的な社会に対するアンチ・コミュニティを形成し、維持する論理ともなります。

 浅野氏は、日本における無教会派の成立を、そうした事例のひとつと考えます。すなわち内村鑑三は、いわゆる不敬事件を経て、当時の日本社会全般と諸教派教会から受けた疎外感をバネに、「教会なしのキリスト教」という新しいアイデンティティを創設しました。これは日本社会やキリスト教会という体制的な序列が生み出す社会差別から自由な「境界性」アイデンティティです。その意味で、無教会派の形成はパウロの伝える洗礼定式の方向性と比較可能です。

 

V

 ガラテヤ人は民族的にはケルト系です。かつては現地住民であるフリュギア人を奴隷化しましたが、パウロの時代、ローマ帝国の支配下にありました。パウロは、たまたま同地方を訪問してキリスト教伝道を行い、彼らの一部が〈ユダヤ教イエス派〉ともいうべきものに改宗しました。

 ところが今は、パレスティナのユダヤ人キリスト教共同体から、ユダヤ化(割礼と律法の遵守)が要求されています。ユダヤ人キリスト教は、パレスティナの同胞社会における異民族憎悪の高まりを受けて、かつては容認した律法から自由な異邦人伝道に対して、今や異邦人キリスト教を「ユダヤ教」の枠内に(再)吸収することで、衝突を軽減しようと試みたようです。これに対してパウロは、律法順守の要求から自由なキリスト教共同体の形成を強く主張しました。これがガラテヤ書の状況です。

 民族差・身分差・性差を否定するパウロの洗礼定式は、単なるガス抜き機能を果たすことで社会の既存の序列を補完するものではありません。また弱者――例えば野蛮人の奴隷で、なおかつ女性――に「他者」であり続けることを認めない、社会の多数派からの同化圧力でもありません。そうではなく、これは「そんなものがありうるのか?」と思われるほどに境界的で、解放的な共同体形成の宣言です。

 これを積極的に表現するのが、結びにおかれた「君たち皆が、キリスト・イエスにあって一人である」という宣言です。

VI

 最後にパウロは言います。

 君たちがキリストのものであるなら、ならば君たちはアブラハムの種、つまり約束による相続者である。(29節参照)

 ここでいう「アブラハムの種」は現実的な血縁ではありません。「約束による相続人」とある「約束による」がそのことを示しています。「約束による」とは「キリスト・イエスにおける信実を通して」(26節参照)、そしてそのことに人が信頼をよせることによる、という意味だと思います。

 神の約束に従って世界を相続するのは、いったい誰なのでしょうか?――先週の説教を担当して下さった野木虔一先生は、礼拝後の懇談の中で、「戦後しばらくの間、キリスト教会は当時の日本社会における文化的なアヴァンギャルドだった」という趣旨のことを仰いました。おそらく当時の教会は、見て触って感じることのできる民主主義の現場だったのでしょう。

 では現代の社会に対して、キリスト教会が提供できる、既存社会の枠組みを超える魅力的な視点とは何でしょうか?――かつての戦後キリスト教になかった重要な視点として、例えば発展途上国への視点、アジアへの視点、他宗教との対話、平和のための取り組み、難民支援、子どもたちへの視点、マイノリティ(民族、難民、セクシュアル)への視点など、いろいろなことを考えることができます。

 そのための重要なステップは、既存社会の見えないバリアーを自覚的に顕在化し、それを無効化する姿勢です。これを可能にするのが「キリスト・イエスにおける信実」です。私たちが受けとる「新しい身分」とは、そのための身分であると思います。

 

 
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