「教会へ託された3つの働き 」マタイ9:35~38 2022/02/20 陶山義雄

イザヤ書35:5−10;マタイによる福音書9:35−38

イザヤ書35:5−10;マタイによる福音書9:35−38

中村吉基先生の休暇中、本日と、来週(27日)の礼拝を担当することになりました。16回にわたり、「山上の垂訓・講解説教」でお話しましたが、昨年の3月21日に完結して以来の講壇(礼拝担当)です。これより、マタイ福音書記者が主として第10章の中に収めたイエスの「使徒職授与と派遣の説教集を、私が礼拝を担当する時にテキストとして取り上げたいと思います。

第Ⅰ説教集である「山上の説教集」と、これから始まる第Ⅱ説教集との関連はマタイ記者自身が、本日のテキスト冒頭にある9章35節で簡潔に伝えています

「イエスは町や村を残らず回って、1.会堂で教え、2.「御国の福音を宣べ伝え、3.「ありとあらゆる病気や患いを癒された。」

この短い纏めの内、1.「会堂で教え」、と2.「御国の福音を宣べ伝え」、この2点についてマタイ記者は第Ⅰ説教集である「山上の説教」に収めています。そして、3.「ありとあらゆる病気や患いを癒された」と云う所については「山上の説教」(マタイ5~7章)に続く8章と9章に収められています。そう言う訳で、本日のテキストはマタイ福音書記者が、「山上の説教」を含めこれまで繰り広げて来たイエスの働きの総まとめをしている所であります。イエスの弟子達、そして、その話を聞いている私達も受け継いで行くべき、イエスの働きと勤めが言い表されている所であります。1.「会堂で教える事」、2.「御国の福音を宣べ伝えること」、そして第3に「病気や患いを癒すこと」、これら三つはキリスト教会がこの世に向かって、託された大きな勤めであります。教会がこの世に存在する理由を尋ねれば、この3つに要約されているのです。長い歴史の中で、教会はこれら3つの勤めを果たして来ましたし、私達も、個人として、また、教会として、この勤めを担い、受け継いで来た、(そのように誇ることは出来ない迄も、こうした勤めを自覚し、努力して来た、)と申すことが出来ると信じます。学校や病院、福祉施設など、その歴史を遡れば、教会から発し、教会の働きが今も続いていることが分かります。宣教、教育、福祉を含めた医療、この三つがマタイ記者によってイエスの働きとして纏められているのです。不幸なことに、プロテスタント教会・最初の宣教師ヘボン先生(1815~1911)は安政6年(1859)に来日しながら施療のみ許され、4年後の文久3年(1863年)には英学塾を開くことができまたが、布教を許されたのは14年経った明治6年のことでした。

本題に帰って、イエスに始まる3つの働きが、これよりイエスから弟子達へ受け継がれようとしています。私達は今、このテキストを通して、弟子達と同じ席へ呼び集められているのです。教会の勤めは昔も今も変わりありません。イエスの行った3つの働きは、イエス時代も、昔から現在に至るまで、必要な(緊急の)勤めであります。主イエスはその働きがどれ程、差し迫って必要であるかをご覧になりながら、哀れみの眼をもってこう語っておられます:「群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)「弱り果て」と訳されている言葉は、身を削られる程、追い詰められている状態を考えれば宜しいと思います。「飼い主のいない羊」と云う言葉は旧約聖書に見受けられる慣用句です。律法書や預言書にも出てくる言葉でありますが、路頭に迷っている人々の有様を良く言い表しています。

私達も、「飼う者のない羊」のように路頭にさ迷う人間であることを告白しなければならない状況に今おかれているのではないでしょうか。コロナヴィールスを思えば、如何に私達が「混乱し、打ちひしがれている」状態にあるかが良く分かります。飼う者のない羊のような群衆を憐れみながら、イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37~38)この言葉に続いて 10章の「12弟子の使徒職伝授と派遣」の説教集が始まる訳ですが、本日は教会に託されている3つの働き、その中でも、宣教と教育については「山上の説教」で見て来た所ですから、今日は残る第3の「癒しの働き」について注目したいと思います。「山上の説教」に続く8章と9章34節までの内容は、殆どがイエスのなさった癒しの奇跡物語集であります。マタイ記者が奇跡物語を重んじていることは、他福音書を比べると良く分かります。ルカ(19物語)、マルコ(18)、ヨハネ福音書(7)と較べて、マタイ福音書では20も載せています。もっとも、ヨハネ記者はカナの婚礼で水を葡萄酒に変える物語のように奇跡として語るのではなく、「しるし」として扱うと云う特徴があるので、一概に数をもって比べる事は出来ないかも知れません。事実、ヨハネ福音書には「しるし」にあたる言葉(σήμιον―σήμεια)が17回も登場し、他福音書で奇跡にあたる出来事を指していますから、重要さの度合いからすれば、ヨハネ福音書も大変重視していることが分かります。現代人にとっては、「しるし」と云う言葉を用いる方が、奇跡と云う出来事をそのまま受け入れられないような人達にとっても分かり易いと云えるかもしれません。奇跡を理解し、受け入れる手がかりをヨハネ福音書記者は、「奇跡」ではなくて「しるし」と云う言葉に置き換えて、伝えているようにも見うけます。

福音書を読みますとイエスによる治癒物語が何と多く語られているか、お気付きになると思います。イエスの許に集まった人々には、それだけ多くの病める人たちがいたからです。イエスの許へ教えを聞きに来るばかりでなく、癒しを求めて人々がイエスの許に集まって来た有様が生き生きと描かれています。また、イエスは病める人々の願いに真正面から真剣に対応しておられます。栄養状態が良くない社会の中で。皮膚病を患っていたり、重い病を抱え、また、体の不自由な人たちが路上で物乞いをしていたり、心の病いを負っている人たちや、また、その身内の人々など、こうした人々にイエスは関心を寄せ、同情を寄せ、救いの働き数多く行っておられます。そうした治癒物語を私達が読む時、現代人である私達には理解しがたい躓きを覚えるかも知れません。私達が病気をすれば、まず、門を叩くのは病院であり、教会ではありません。医師や病院から見放された時、最後に神頼みのように、教会の門を叩くことになるのかも知れません。聖書の奇跡物語を読みますと、福音書記者たちが伝えようとしていることは、「イエスによる奇跡の出来事をただ信ぜよ」と読者に迫っている訳ではありません。「神の働きがイエスを通して現れ出ている」事を、感動をもって伝えています。そのイエスご自身も、癒しの出来事を通して神の業が現れるように祈り、治癒や願いが叶った時、その出来事を神の御業であるとし、また、治癒を求めてイエスの許に来た人に「あなたの信仰があなたを救った」と語っておられます。

キリスト教作家で赤岩 榮先生から洗礼を受けた椎名麟三さんが奇跡物語について良くこのように言っておられた事を思い出します。それは、「たとい、イエスによって癒された人たち、奇跡行為によって危機を脱した人たちでも、結局は皆、死んでゆくのであれば、我々と変わりない存在にすぎない。でも、奇跡物語が今も輝いているのは、そうした我々の限界の中に、イエスを通して神の業、神の働きが表されている処である。」椎名さんのように、文学に携わる人々は福音書記者の思いを時間や空間を乗り越えて、通じ合う心を読み取る力を持っているように思います。吉本隆明も鋭敏な感覚で奇跡物語から、物語を伝えて来た人々と心を通わせているように思います。彼のエッセイ「喩としての聖書」(『言葉という思想』1981)では、言葉として聖書を見ると、奇跡物語が喩えている力強い内容が良く分かる。これほど力強い表現力に驚きを感じている、と述べています。医者にかかり、病気が治ったとしても、死に克つ力はありません。聖書が奇跡物語を通して伝えている力は、当座の治癒や苦境を乗り越えて顕されている、現代の医者でも出来ない程、大きな力が顕されています。椎名も吉本も福音書記者からそうしたメッセージを読み取っているのです。ここに奇跡物語の読み方が示されているように思います。そして、私達も福音書記者たちの心情に与かることが出来るのではないでしょうか。肉体的には滅びる他ない私達も、奇跡物語が伝える偉大な力を頂いて、死に克つ命の道を証する勤めへと、今、招かれているのです。そう言う視点をもって、これより12使徒へのイエスによる力の伝授物語へと読み進めたいと思います。

 本日のテキストは山上の説教のあと、イエスがしてこられた働きの総まとめである、と申しました。そして、奇跡物語の読み方を述べさせて頂きました。それに加えて最後に、イエスが民衆に向かう姿勢、取り分け、弱者や病める人々とイエスが共におられる、その出来事に注目したいと思います。癒しの業は、病める人と向き合い、寄り添い、共にこうした苦しみを分かち合う所から始まります。今、薬や医学でも治せない病は数多くあります。取り分け、心の病や、精神的な病について、回復の道はイエスの業そのものと同じであり、見放すことなく、病める相手に向き合い、苦しみを共にする姿勢が病める人々の癒しに繋がることを学びたく思います。そういう姿勢が治癒に繋がって行った例を数多く聞いています。精神科の医師である前に、あるいは、医師であると同時に、一人の人間として病める人に接して行くうちに、いつしか共に癒しに与かっている、と云う報告を伺っています。カウンセラーと患者は、癒す側と癒される側と云うような関係ではなく、共に同じ人間と云う基盤の上に立って、共に癒しに与かる働きである、とも聞いています。

本日は福音書のテキストから奇跡・治癒物語を、ご一緒に読む時間を取ることが出来なかったのですが、治癒物語について、今ひとつ学んでおきたいことがあります。それは、患者の姿勢と申し上げたら良いかもしれません。イエスの治癒物語に登場する病人や障碍を負った人たちは、自分が病んでいて困っていることを、イエスに向かって率直に言い表している所に注目したいと思います。苦悩を長い間、背負いながら、治してもらいたいと真剣に迫っている姿が記されています。その真剣さは読者である私達に、或る感動さえ感じさせる物語です。そして、この方、イエス様なら治してもらえる、という強い期待と信頼を表している所です。患者の範例・模範的な例(Patienthood)が、物語のなかに登場する患者たちであります。(病気のデパートのような私には学ぶべき患者の姿です)。

患者である私たちは、病める姿を謙虚に見つめて只管その治癒を願い出る。また、そう言う人たちに教会が向き合い寄り添って行く。そう言う仕方で、私達は教会に託された3つの働きの癒しについても受け継ぐことが出来るものと信じます。私達が今、ここに在るのは本日のテキストにあるイエスの弟子・召命から受け継がれて来た教会の勤めと働きによることを覚え、感謝と喜びを持って教会の栄えある勤めを、ここに受け継いで行く者でありたいと祈ります。(聖書に記された治癒物語からイエスの元に来る患者たちが顕しているもう一つ大切な姿勢(Patienthood:病とはどういう事か、治るとはどう云う事か)があります。その事については次回・来週の説教で申し上げたく思います。)

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