ヨハネによる福音書7:37-39
私たちの国日本は「水が豊かな国」などとよく言われますが、聖書の舞台ではそうではありませんでした。雨期になってほんのわずかな雨が降るだけで、乾期には大地が乾ききっているようなところですから、今日のイエスさまのみ言葉にあるように「生きた水が川となって流れ出る」ことなど考えられもしなかったでしょう。私がイスラエルに行きました時には、脱水しないようにミネラルウォーターを手放しませんでした。まだ日本でも熱中症への警告があまりされていない時代でしたから水を手放さないようにと言われるのは、ほとんど経験がありませんでした。そこで見たヨルダン川は濁っていて、清流ではありませんでした。イスラエルというのはたいへん水が貴重な地なのです。
皆さんは「マイムマイム」というイスラエル民謡をご存知でしょうか。これは開拓地で水を掘り当てた人たちの喜びを表した歌です。イエスさまの時代は、普段の生活においても生活圏内に井戸がひとつあるか、無いかでした。同じヨハネによる福音書の4章にはイエスさまとサマリアの女のやり取りが記されています。ここでも「水」がその中心にあります。この記述によれば井戸のあるところまで水を汲みに来ますが、(7節)、水はとても深いところにあり、道具を使わなければ汲むことが出来なかった(11節)、いわば重労働です。とにかく聖書の舞台では水は貴重なものであったことは否めません。この水がなければ人間は生きていくことが出来ません。いのちを繋ぎとめる「水」――そこから聖書における「水」は神の救いの象徴となっていったのです。
さて、今日の聖書の箇所には「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」(37節)とあります。この7章を最初から読んでいくとその祭りが「仮庵祭」(スコット)であることがわかります。そしてこの仮庵祭と「水」とは切っても切れない関係にあるのです。この祭りは、イスラエル人の三大祭りの一つで、出エジプトから40年間の荒野での生活が守られたことを記念したものです。現在では9月から10月の間に祝われ、ちょうどこの時は収穫の時期に当たり、いわば収穫感謝祭でもあります。実は私が泊まったエルサレムのホテルでも先週の12日からユダヤの新年になり、そのあと仮庵祭になるのでその準備に余念がありませんでした。ホテルの中庭に簡単な木を組んでその屋根にナツメヤシの葉を載せて「仮の住まい」を再現するのです。
先ほどお話しましたように聖書の舞台、特に荒野は、水がほとんどありませんから、少し植物があるだけで、人間は生きて行けません。けれども神の養いのもとにイスラエルの民はエジプトを出て40年間も暮らすことができたのです。そのことを仮庵祭では想起するのです。そして荒野で一番大切なものは「水」です。――救いの象徴である「水」――この祭りの間に、毎日祭司たちはシロアムの池から水を汲んできて、祭壇に水をかけ、いけにえを献げ、今日の最初の朗読で聴きましたイザヤ書12章3節「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む」との賛美をします。水(救い)を与えてくださった神への礼拝です。そして7日目には特別に雨乞いの祈りを捧げます。祭りのクライマックスとも言えるでしょう。たくさんの人が集まっているところで、イエスさまは今日の37‐39節に記されている言葉を大きな声で言われたのです。ひじょうに象徴的と言うか、深い意味のある言葉でした。これを聞いたユダヤ人は、水と言われて聖書(旧約)の言葉をすぐ思い浮かべます。
ゼカリヤ書14章8節のことです。そこにはこう書かれています。
「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」。
そこでは水が東へ(死海の方へ)西へ(地中海の方へ)流れて行きます。神殿から湧き出る水がイスラエルから世界中に溢れ、世界の人々がその水を飲んで生きるのです。ユダヤの人たちからすれば、その水の源はエルサレムすなわち選ばれた自分たちにあるという誇りがありました。その人たちに向かって、イエスさまは37〜39節に記されている言葉を話されたのです。無謀とも言えることでした。救いは神殿から、と考えている人たちに、その水はわたしから出るので、わたしのもとに来て飲みなさいと大声で言われたのです。
イエスさまは「渇いている人はだれでも」と言われました。「渇き」――イエスさまが言われた渇きとは肉体的なものを指すよりも、精神的な魂の渇きでありました。肉体的な渇きはだれもが経験することです。しかし、精神的な魂の渇きは無自覚的に起こります。何か違うことに関心を寄せて、問題から目をそらすことも出来ますし、表面的に元気なそぶりを装って「渇き」とは無縁の生活を送ろうともすることもあるからです。けれどもそんなことが果たして続けられるのでしょうか。この「渇き」が満たされなければ、私たちの生活はリズムを失い、人格にひびが入り、そうなれば途端に身を持ち崩してしまうのです。
けれども、イエスさまはそのような渇きを持つ人すべてに「わたしのところに来て飲みなさい」と言われたのです。私たちのすべてをイエスさまの前にさらけ出して「水」を求めてよいのです。魂の渇きに苛まれる者が、イエスのもとで「生きた水」を飲むことが出来るのです。また、この魂の渇きは自らの努力によって克服できるものでもありません。しかしイエスさまが言われるのです。「わたしのもとに来て飲みなさい!」 この言葉を聴く時、私たちがよく知っているマタイによる福音書11章28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」を思い起こします。日本では今パワースポットというものがもてはやされています。それだけ疲れた人たちがたくさんのいるのでしょう。「○○に行けば渇きが満たされます。□□に行くだけで疲れがいやされます」と安直なことは言いません。イエスさまはただ一言「わたしのもとに来なさい!」「わたしのもとに来て飲みなさい!」と仰せになるのです。これは重い言葉です。私たちはこの言葉によく聴かなければなりません。イエスさまとの出会いによって私たちに生きた水が与えられるのです。生きた水は他にはなく、わたしのうちにある、とイエスさまはすべての人を招いておられるのです。
さて、38節でイエスさまは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われます。この言葉は何を意図しているのでしょうか。イエスさまのもとに来る者は、その人自身の渇きがいやされるだけでなく、他者をも潤すことの出来る水が流れ出る、と言うのです。ここでイエスさまは「聖書に書いてあるとおり」と言っておられます。これは旧約聖書のさまざまな箇所に、神の民に聖霊が注がれるという約束が「水」という比喩を用いつつ、記されています。先ほどご紹介したイザヤ、ゼカリヤ、エゼキエルなどの預言がそれに当たります。特にエゼキエル書47章9節では「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」と預言されています。
イエスさまが「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われたのはまさにこのことでした。私たち自身に聖霊が住まわれ、私たち自身からほとばしり出る聖霊の恵みが、細々と流れる川ではなく、大胆に、そしていきいきと躍動的に流れる川のようになるのです。そしてそこにだれもが近づき、だれもがいやされ、だれもが救われる川の流れが、私たちの人生の中で豊かに流れ出すとイエスさまは約束してくださるのです。
さて、私たちの教会では毎月最初の主日(日曜日)に聖餐を祝っています。これと同時に教会はすべての人に神の救いを宣言します。今ともに聴いたイエスさまのみ言葉を本当に信じるならば、私たちが自分自身で「壁」を造って「生ける水」の自由な流れの邪魔をしてはいけないのです。神の憐れみ、神の恵みの働きを人間の手で囲ってはならないのです。私たちが今見つめている食卓は、私たち自身のものではないのです。教会のものでもないのです。これはまさしくイエス・キリストの食卓です。イエスさまは確かに宣言されました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい!」今、私たちはそのみ声を聴いたのです! だれもがこの食卓に近づいて良いのです。イエスさまは大きく手を広げてすべての者たちを招いておられます。その招きをイエスさまに信頼して歩みを起こしている私たちがどうして遮ることができるのでしょうか。
残念なことですがキリスト教の歴史の中で、一部の人びとが「高い壁」でいのちの水の湧き出るところを囲い、「特別な用語」で他の人びとを排除し、生ける水を管理するための「規準」を設けたのです。こうして「水」がどこにあるかも分からなくなっていったのです。そのようなことが真実に「正しい」ことなのかどうか、今一度イエスさまのみ言葉に究明する私たちでありたいのです。キリストはいつも私たちの只中におられます。見えないキリストの見えるしるしとして、私たちの手のひらに、もれなくどのような手のひらにもパンと杯の形をとってキリストが来てくださるのです。そして皆が一つとなって、イエス・キリストのいのちのパンといのちの水に与るのです。
パンと杯に養われた私たちの内から、生ける水が大きな流れとなって出て行きますように。その流れが他者に喜びと慰めをもたらすことができますように。そして私たちの教会がいのちの泉となって豊かな生ける水が湧き出るように祈りを合わせましょう。そして私たちの周りにいる弱く、小さくされた人々、悲しむ人々、病める人々、苦しみの中にある人々がキリストの生ける水によって渇きをいやされ、慰められ、新たな希望を持って歩み出すことができますように。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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