主ともにあり

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「主ともにあり」

村椿 嘉信
詩編8,2-10;

旧約聖書:詩編8,2-10

02主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
03幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
報復する敵を絶ち滅ぼされます。
04あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
05そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
06神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
07御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
08羊も牛も、野の獣も
09空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。

新約聖書:ルカによる福音書12,4-7

04「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。 05だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。 06五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。 07それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

天国はほんとうにあるのか

 この秋に、私は、1冊の書物を通して、天国について考えました。その本というのは、『天国は、ほんとうにある』というタイトルで、「天国に旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語」と副題がついています。日本語では出版されたばかりですが、全米では480万部を突破してベストセラーになっていると紹介されています(トッド・バーポ著『天国はほんとうにある』阿蘇品友里訳、青志社)。

 著者のトッド・バーポは、合衆国のネブラスカ州にある小さな町の牧師ですが、その息子のコルトンという男の子が3歳のときに大きな病気にかかり、手術を受け、奇跡的に一命を取りとめました。その後、回復してから、自分は手術中に天国へ行ったと話し始めたということです。

 自分は、天国に行ってきたとか、見てきたとかいう書物は、キリスト教関係でも、あるいは他の宗教との関係でも、数多く出版されています。フィクションもあります。何らかの異常体験をしたというものもあります。夢や幻覚を見たとしかいいようのないものもあります。奇妙きてれつな内容のものもあります。

 本人がいくら、自分が天国に行ってきたと主張しても、それを科学的に確かめることはできません。また読者が本に書かれていることと同じ体験をすることはできません。たとえその体験がいくら事実であるとしても、私は、そのような本を読んでも、感銘を受けることはないし、何も学ぶことができないというのが今まででした。しかしこの本は、ちょっと違っていました。

 

コルトンの見た天国

 さて、この書物に描かれている天国がどのうようなものかというと、それはほぼ、聖書に書かれている天国に関する記述と同じです。それ以外のことが書かれているのではありません。それをこの本の著者は、聖書の箇所を一つひとつ上げながら、聖書と同じだと説明していますが、その説明の仕方には、無理があるのではないかと私は思います。

 しかしそうはいっても、コルトンという3歳の少年が見たという天国が、聖書の記述とどこか似ているのは事実です。聖書とどこが似ているのかというと、私なりにまとめると3つの点があげられます。

 第1に、天国にイエスがいることです。コルトン少年は、天国でイエスに出会ったと語っています。

 第2に、そこには、親しい人たちがいるというこです。すでに天国に召された家族の人たちがそこにいたということです。

 第3に、イエスと、コルトンと、さまざまな人たちが、愛によってつながっているという点です。

 これがコルバンという3歳の子どもが体験したという天国の基本的な姿だと私は思います。

 これだけのことだったら、何もこの書物を読まなくても、聖書だけ読めばわかるではないか、と問われれば、その通りだとしか言いようがありません。

 

コルトンが天国を見た経緯

 それなのに私がこの書物を読んで感銘を受けたのは、むしろこのコルトンを中心として、両親、子どもたちの、「天国」ではなくて「この世」でのあり方です。

 まずは、子どもが天国を見たと言うときに、親が子どもとていねいに向き合い、話し合っているという点です。子どもとともに生きようとする姿勢、子どもから学ぼうという態度が、この書物の中にすなおに描かれていると思いました。

 この書物の冒頭に、マタイによる福音書18章3節が引用されていますが、そこには、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない」というイエスの言葉が書かれています。イエス自身、子どものような心をもたなければ、天国に入ることはできないと言っています。コルトンのような少年だからこそ、神の国を見ることができたのかもしれません。

 またコルトンを見守る親たちの謙虚な姿勢が描かれています。子どもが生命の危険にさらされるような体験するとき、親は、何をしてでも子どもを守ろうとします。でもこの書物の場合、親が子どものためにすべてを投げ捨てても、それでも子どものために何もできないというところまで事態は深刻になります。父親は、牧師であると紹介しましたが、牧師であれ、もはや何もできないという体験をします。自分の無力さを感じたときに、この牧師は、生き方を変えざるをえなかったのだと述べています。そのあたりのことをこう書いています。

 「普通、牧師とその家族というのは、人に『助けてもらう側』ではなく、人を『助ける』側にいるものであり、そのほうが落ち着くのだ。だからこれまで、ソンジャ(=妻)と私は、必要があれば、病人を訪ねたり、人に食事を運んだり、人の子どもたちの面倒を見たりしてきた。頑固なほどに人を頼らず、自分の力で何とかしようとしてきた。‥‥いま振り返ると、それは高慢といってもいい地点まで行っていたのかもしれない。でも、病院でのあの極限の体験は、私たちが大切に抱え込んでいたプライドを枯れ枝のごとくぽっきりと折り、人から、物理的、心理的、経済的に助けてもらうための謙虚な気持を持つことを教えてくれたのだ。(人を助けるために)強くいること、自分以外の人を祝福することは、もちろん良いことだと思う。だけど、弱くなること、自分たちのために誰かにたのもしくなってもらうこと、自分たちのことを誰かに祝福してもらうことにも、価値があると学んだのだ」(一部、訳文を変えました)。

 私は、まさにこのような生き方は、イエスの生き方から学んだものだと思いました。

 コルトンは、このような親のもとで、その親や家族に愛されながらも、ひとりで死の淵をさまよいました。家族から切り離され、死へと旅立つという体験をしました。まさにその孤独と苦しみの中で、しかし強い意志で神さまを愛し、生きるためにたたかったときに、天国を見たのかもしれないと思いました。

 コルトンが天国を見ることができたのは、真実を見分け、直感する子どもの感性のゆえ、また家族の愛のゆえではないかと思います。また、さらにはコルトンの生きようとする意志、苦しみを乗り越えようとする力、そして何よりも神への祈りが重なったからこそ、コルトンは、天国をみることができた‥‥、というか、神さまが天国を見せてくれたのではないかと思いました。

 

聖書の描く天国とは

 さて、天国は、聖書では、神の国とも呼ばれています。神さまが支配しているところが天国です。

 その神さまのわざについて、ルカによる福音書12章4-7節にはこう書かれています。

 4節にまず「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とあります。この地上の権力者とか、悪人とかを恐れる必要はないというのです。それでは「だれを恐れるべき」でしょうか。「それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方です」。神さまは、地獄に投げ込むこともできる方です。神さまはそういう方だけれども、イエスは、4節冒頭にあるように、「友人であるあなたがた」に語りかけています。イエスは、私たちを「友人」として招き、神さまは確かに恐ろしい方だけども、でも、あなたがたは、神さまに見守られているのだと語っています。6節以下にこうあります。

 「五羽の雀が2アサリオンというわずかな金額で売られているではないか。だが、たとえわずかな金額で売られるような雀であれ、その一羽も、神がお忘れになるようなことはない」。

 そして7節に「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とあります。

 あなたがたは雀よりまさっている。神が地獄に投げ入れることない‥‥とイエスは、友人であるあなたがたに語られました。そのイエスが、私たちを招いてくれるのが、天国です。

 このように私たちを招き、私たちを生かし、私たちに交わりを得させてくれるイエスが、天国にいるのです。そしてそこには、すでに召された私たちの親しい人たちがいるのです。私たちは愛によって、それらの人たちと結びつけられるのです。

 

 イエスがすでに天国に召された人たちと私たちとを結びつけてくださる

 天国そのものを見ることは私たちにはできません。でも天国にいるイエスを私たちは、私たちの仕方で、つまり聖書の証言を通して思い描き、イエスの言葉に学び、信じることができるのです。

 天国にどのような人たちがいるのかを私たちは理解することができません。私の親戚にも天国で会えるのかもしれませんが、名前すら知らない人たちが大勢いるのが事実だと思います。でも、すでに亡くなられた身近な人たち、教会の人たち、友人たち、知人たちとそこで会えるのです。

 しかし私たちは天国で人と人とがどんな思いを持ち、どんなふうに生きているのか知ることはできません。でも私たちは人を愛することができます。もちろん地上の愛は、完全なものではありませんから、天国で人と人とがどのようにつながっているのかを理解できません。でも私たちは、この世にあっても、イエスの招きによって、イエスに支えられ、力を与えられ、人を愛することができるようになるのです。

 ということは、私たちは、天国について何も知らないわけでは決してないということです。おぼろげながらに、しかしイエスによって確かに、私たちは天国を知っていることになります。

 イエスの言葉が語られ、力を奮うところで、交わりが形成され、人と人とが愛によって結びつくことができるようになります。私たちと、すでに天に召された人たちとは、別の世界で生きていますが、天国にいるイエスと、私たちが信じるイエスは、別の方なのではなく、同じ一人の方です。このイエスのもとで、私たちは、すでに召された方たちとも愛によって結びつくことができるのです。

 主がともにいる、それが天国であり、神の国です。そしてイエスはかつて「私はあなたがたとともにいる!」と呼びかけてくださったし、今もまた同じように、私たちに呼びかけておられるのです。

 イエスは「天に宝を積みなさい」と言いました。「まず、神の国と神の義を求めなさい」と言いました。イエスに見守られながら、私たちは、多くの人たちとともに歩み、愛の実を結ぶことができます。赦し、和解、平和、共存、喜び、誠実、‥‥これはすべて愛の実です。愛から生み出されたものは、時間とともに過ぎ去るのではなく、永遠に残ります。

 私たちは、ともにいて下さるイエスのもとで、愛をもって天に召された方のことを覚えたいと思います。その私たちの思いは、イエスによって、天に届けられるでしょう。それだけでなく、天に召された人たちの思いが、イエスによって、この世にいる私たちに届けられるでしょう。私たちは、天に召された人たちが私たちに残してくれた愛に生きることができるでしょう。

 


祈ります:

主なる神さま。
今日は、召天者記念礼拝をまもっています。
親しくともに歩んだ人たちのことを思い起こすことができますように。
復活された主イエスの力により、
すでに召された人たちの思いと、私たちの思いを、
愛において結びつけてください。
今なお地上を生きる私たちに、
恵みと祝福を与え,
私たち同士も、イエスの愛で結びつけてください。
この地上においても、
愛をもってともに生きることができますように。
常にお互いに声をかけ合い、助け合って歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン。

 


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Emmanuel

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