教会によっては服装に厳しいところがあります。果たしてその根拠は何なのでしょうか?
あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「教会にショートパンツを履いて行ったら、怒られてしまった」と。なんと、教会にTシャツやショートパンツを着て行ったらダメなのだという。私は思わず笑ってしまったが、実際にそのような教会があるのは事実だ。
教会によっては、ドレスコードがある。スーツなどのセミフォーマルでないといけない格調高いところもあれば、私が集う共同体のように、何でもOKなところまで様々だ。それぞれの集まりには、それぞれのルールがあり、私はそのいずれも否定するつもりはない。しかし、服装は「礼拝会」においてどの程度重要なのだろうか。今回は、礼拝会の服装について、一般的な価値の重さについて論じていきたいと思う。
服装について述べる前に、「礼拝」を定義しなければならない。私は日曜日の「礼拝」という集会は「礼拝」だとは思っていない。その点については、去年記事を書いたので参考にしていただきたい。
結論から言えば、日曜の「礼拝」という集会は「礼拝会」であって「礼拝」ではない。「礼拝」とはあなたの人生をささげる「生き方」そのものである。それなら、あなたの人生すべてが礼拝と言って差し支えない。つまり、日中スーツを着て働いているときも、夜パジャマを着て寝ているときも、裸でシャワーを浴びているときも、全て礼拝なのである。であるなら、根本的に「礼拝に服装は関係ない」と言えるだろう。
聖書自体が、こう教えていないだろうか。
(妻たちに対し)あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。(中略)同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
(ペテロの手紙第一 3:3〜8)
神は人のうわべではなく、心を見る。つまり、礼拝という生き方において大切なのは、「柔和で穏やかな霊」「同情心」「兄弟愛」「心優しさ」「謙虚さ」といったような「心の中の隠れた人格」であって、うわべを着飾る行為ではない。
また、イエスはサマリヤの女に対して、「いつでも、どこでも、誰でも礼拝できる」という基本を教えた。聖書を見てみよう。
イエスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」
(ヨハネの福音書 4:21~24)
つまり、現代の私たちは、教会の「礼拝堂」でなくとも礼拝できるし、実際に礼拝しているのである。礼拝は「生き方」なのである。だから、本質としては一緒に礼拝する心を形で表しましょうという「礼拝会」にドレスコードは必要ない。本来は、服装に関わらず、礼拝は可能だからである。
ただ、地域の文化によって、服装が心の状態を表すという考え方もある。現代の日本においても、時に服装は大切である。お葬式にアロハシャツで行ったら普通はひんしゅくだし、国会議事堂の本会議場はスーツでないと入場できない。就職の面接はたいていスーツで行くし、学校の体育の授業では指定の運動着を着ないといけない。文化によっては、ある程度の服装は大切と捉える人がいるのは当然だろう。ただし、人の前と神の前ではとるべき行動は違う。これについては後述する。
海外の例も考えてみよう。例えば、インドネシアの教会は、かなり服装に厳しいところが多い。正しい服装でないと入場できないところもある。それは、インドネシアの文化において、服装が大切だからである。とはいえ、正装が「バティック」というアロハシャツみたいなものなので、日本人の私からすると、むしろラフな服装だったのだが・・・。
兎にも角にも、服装は文化と密接しているので、それぞれの地域の文化に沿ったやり方があるだろう。しかし、そこには本質はない。だから、クリスチャンは文化と自分の心をよく吟味して、そのグループごとのルールを決めていったら良いと思う。
既に、ある程度の結論が既に出てしまったが、もう少し詳細に聖書をひらいてみたい。
旧約時代の礼拝はどうだったか見てみよう。モーセの時代、イスラエルの民には「祭司」がいた。当時、礼拝には様々な手順があり、祭司がその儀式を行っていた。祭司の服装はどうだったのか、見てみよう。
モーセはアロンとその子ら(祭司たち)を近づかせ、彼らを水で洗った。そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとませ、さらにその上にエポデを着せた。すなわち、エポデのあや織りの帯で締めて、彼にエポデを着せた。次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミム(※くじの一種と考えられている)を入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらに、そのかぶり物の全面に金の札すなわち聖なる記章を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。(中略)次に、モーセはアロンの子らを連れてきて、彼らに長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた。主がモーセに命じられたとおりである。
(レビ記 8:6~13)
神は、モーセに命じて、ことこまかに祭司の服装を指定した。ここに書いていない規定もたくさんあった。何色に糸を染めるかとか、どの宝石をどの位置に取り付けるかまで、細かく指定があった。アロンなどの祭司は、指定された通りの服装を着て、決まった日に、決まった手順で聖所・至聖所に入り、神にいけにえを捧げたりしていたのである。礼拝には詳細な手順があり、それを守らないと死んでしまうほどであった。それほど、神の存在は恐ろしいものであった。
しかし、旧約の規定は、全てイエスにつながる型である。現代の私たちは、当然旧約聖書にあるような「礼拝の規定」を守る必要はない。
さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。(中略)この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
(ヘブル人への手紙 9:1~12)
イエスが「永遠の贖い」を成し遂げたので、これらの規定を守る必要はなくなった。もはや、旧約の祭司のような服装をしなくても良いのである。
一方、イエス一行の服装は、どのようなものであったのだろう。聖書をのぞいてみよう。
それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻きの小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。
(マルコの福音書 6:6〜9)
彼ら(イエス一行)が道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」。イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス)には枕するところもありません」
(ルカの福音書 9:57〜58)
こう見ると、イエス一行は、かなりみずぼらしい服装をしていたのではないだろうかと推測できる。毎日同じ下着! ばっちい!! 長いあいだ旅をして、寝るところもままならず、借りぐらしの日々が続いていた。スーツなんていうものは当時はないが、高価な紫色の着物など着ることなどできなかっただろう。しかし、彼らは主なるイエスと共に歩み、主のそばで生き抜いたのであった。
イエスは、「花婿と一緒にいるときに、どうして断食できようか」と述べるなど、「イエスと一緒にいる」という特別さをたびたび強調している。そのイエスと一緒にいた弟子たちは、おそらく毛皮を身にまとうような、とても「正装」とは言えない服装をしていただろう。もちろん、現代の日本の経済状況と単純比較はできない。しかし、大切なのは服装ではなく心であるという結論に矛盾するものではないだろう。
イエスの弟子たちは、服装はボロボロでも、イエスと一緒にいることを喜んだのだ。神であるイエスと一緒にいる。待ち望んだメシアと一緒にいる。それ自体が特別であり、礼拝だったのだ。現代の私たちも、服装に気を配るよりも、イエスと一緒に歩む人生を送っているかどうかに注力した方が良いのではないだろうか。
反論を考えてみる。一番よく聞くのは、「就職の面接にはスーツを着ていくではないか。偉い人に会う時は、ネクタイを締めるではないか。人の前できちんとした服装をするなら、王である主の前に出ていく礼拝の場では、かしこまった服装をするのは当たり前ではないか」という主張である。
これは、言い換えれば「人の前でふるまうのと同じ原則で、神の前でもふるまうべきだ」という反論だ。しかし、この反論はロジックが弱い。2つの誤解に基づいているからだ。ひとつは、日曜の礼拝会を礼拝だと思いこんでいる誤解。2つ目は、人の前と神の前で同じ原則が適用されるという誤解だ。一つずつ見ていこう。
1:日曜に集まる集会は「礼拝」ではない
先の章で述べたように、日曜に集まる集会は礼拝ではない。「礼拝会」である。礼拝とは、あなたの人生を神にささげる「生き方」である。つまり、1年365日24時間、毎日、瞬間、瞬間が礼拝なのだ。だから日曜に集まる礼拝会は「神の前に出ていく」行為ではない。あなたはいつも「神の前」にいるのだ。これはある意味、恐ろしい事実である。あなたはいつも主の前に裸の状態なのだ。
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。
(ローマ人への手紙 14:12)
だから、先のように「神の前に出ていく時には正装で」と主張する人は、もし筋を通すのであれば、いつも正装していなければならない。私たちは常に神の前にいるからだ。しかし、そんなことは不可能だ。神はあなたが、シャワーを浴びる時も、寝ている時も、ご飯を食べている時も、あなたを見ている。そして、信じる者と一緒にいてくださるのだ。
2:人はうわべを見るが、主は心を見る
さて、「人の前でふるまうのと同じ原則で、主の前でもふるまうべきだ」という論点だが、これはそもそも前提が間違っている。聖書に何と書いてあるか見てみよう。
人はうわべを見るが、主は心を見る。
(サムエル記第一 15:7)
聖書にはハッキリと、「人はうわべを見る」そして「主(神)は心を見る」という2つの原則が書かれている。そう、人前でかしこまった服装をするのは、人はうわべで人を評価するからである。ビジネスでスーツを着るのは、うわべの見栄えをよくするためである。それがいつしか文化となり、社会では当たり前になった。
しかし、それは「人はうわべを見る」という大前提に立っているからする行為である。神はうわべを見ない。神は心を見る。だから、神の前で服装を着飾る必要はないのだ。神の前に出るならば、整えるべきは心であって、服装ではない。
こう考えるならば「人の前ではきちんとした格好をするのに、礼拝ではしないのか」といった反論は、根拠に乏しいと分かるだろう。神の前ではあなたは裸同然である。そして、神は見てくれではなく、あなたの心を見るのである。
もちろん、人はうわべを見るのだから、人が集まる「礼拝会」ではそれなりのドレスコードは必要だという意見もあろう。その通り。だから共同体のコミュニティ全員で一致して決めたルールがあれば、それに従うのが良いだろう。しかし、そのルールは本当に必要なものか、議論があってもいいと思う。議論を赦さないコミュニティは健全とは言えない。
ちなみに、イエスのたとえ話の中で、「婚礼に招かれたが、礼服を着ていなかったので追い出された」というものがある(マタイ22:1~14)。一度、このたとえ話を用いて「服装は大切だ」という反論をされたことがある。目も当てられない誤解だ。これは、「メシアを信じる者」と「信じない者」が区別されるという比喩だ。「キリストを着る」という比喩も、聖書の他の部分に出てきているではないか。聖書を読む際は、比喩をしっかり見分ける必要がある。
さて、この記事ではずっと「服装ではなく心が大切」と述べてきた。では、教会の共同体の集まりで、服装のルール、いわゆる「ドレスコード」を設けるのは悪いのだろうか。私は、決して悪くはないと思う。
集まる人たちの総意で「この服装がふさわしい」と決めたのなら、そのルールは大切にするべきだろう。服装という、ある意味「どうでもいいもの」で不快になったり、心がざわついたり、人に迷惑をかけたり、ましてや争いが生まれるのは、避けたほうが懸命だ。だから読者の方々は、教会の集まりに出かける際には、その共同体の雰囲気に合わせた服装で出向いた方が良いだろう。
その上で、あえて一言問題提起をしようと思う。フォーマルな服装を強制するというのは、経済的弱者を教会に入れなくすることではないか。その想定を、教会はしているのだろうか。例えば、スーツや革靴を強制すれば、経済的に準備できない人を排除することにならないだろうか。きれいなワンピースが買えない人は、教会に来てはいけないのだろうか。たとえ購入できたとしても「自分は安物しかない」といった劣等感を与える結果にならないだろうか。
新約聖書には、服装の規定はほとんどない(※いわゆる「被り物」の論争はこの記事では避ける)。しかし、食事に関する記述から、経済的弱者に配慮すべきだと分かる。その記述を見てみよう。
しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。 食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじ、食事を持参しない人々(※あるいは「貧しい人々」)を侮辱するのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。あなたがたを褒めるべきでしょうか。この点については、褒めるわけにはいきません。
(コリントの信徒への手紙第一 11:20〜22 聖書協会共同訳)
コリント地域の共同体は、比較的、裕福な人が多かったと考えられる。コリントは大都市であり、富裕層が多くいたのは想像に難くない。同時に、経済的弱者も多く集っていたと考えられる。しかし、コリント地域の教会は食事を持参できる富裕層だけで、好き勝手に食事をしていたのだ。パウロはその姿勢を批判した。今回、あえて聖書協会共同訳を用いたが、新改訳聖書2017では、「貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか」と書いてある。パウロは、経済的弱者が教会の共同体でないがしろにされていた状況を批判したのであった。
現代の教会はどうだろうか。日々の生活でも精一杯の家庭に、日曜日ごとに着るフォーマルな服装を準備するのは、大変ではなかろうか。毎週同じ服装というわけにもいかないだろうから、せめて3~4種類は必要になるだろう。子供がいたら、その分の服も準備しなければいけない。そう考えると、経済的な負担はかなりのものになるだろう。果たして、その負担を強いるほど、服装は大事なものなのだろうか。
また、昨今「教会に若者が来ない」という声をよく聞く。若者の代表として言うが、「毎週日曜日にかしこまった服装で10時半に教会に来い」と言われて、喜んで行きたくなる若者はほとんどいない!!! 若者に教会に来てほしいならば、まずは服装の決まりを柔軟なものにしたらどうだろうか。もちろん、中には「かしこまった服装でないと教会らしくない」という意見の人もいるだろうが、私の意見では、そういう稀有な人々は、ごくごく少数だと思う。もちろん、「格調高さ」が好きな人々を対象とするために、厳しいドレスコードを維持するのも戦略としてはアリだ。しかし、多くの人を歓迎することにはならないだろう。
服装は、礼拝にとってはどうでもいいものだ。だとしたら、より多くの人々を歓迎するためにも、厳しい決まりがあるなら、少し変更の余地があるのではないか。これは、私のちょっとした提案である。どんな服装で礼拝会にいくかは基本的には自由である。もちろん、秩序に適した服装で。当然、アキラ100%の格好は辞めたほうがいいだろう。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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